紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:アインシュタインの言葉…だったっけ

 以前Twitter

twitter.com
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 という文章を書いたんだけど、このユダヤ人学生というのはアインシュタインだった。というのもアインシュタインの本だか論文だか、物理の本だかなんだかでこの言葉を発見し「あ、アレってアインシュタインの言葉だったんだな」と思った…記憶はあるんだが、実はその出典元を忘れてしまったのである。
 ということはもちろん本当にアインシュタインの言葉だったのかというのもあやふやである。そうだった気はするんだけど、確認ができない。そのうち(これを書いている今なのだが)その記憶も何やら怪しくなってくる。「どこに書いてあったのかは忘れたけど、アインシュタインの言葉だということは確実なのだ」とも言え…ない…
 要するに新たな説を掴んでもその出典元の情報がなければけっきょく曖昧なままで自分の記憶にも定着しないということですね。

* * *

 ところでこれもTwitterなんだけど、このような書き込みを見た。

 雑に要約すると、おむつ愛好家というのかおむつに性的嗜好があり(という日本語でいいのか)ベビーシッターや保育士見習い(資格はまだ取得していないらしい)の仕事をしているアカウントを発見したので注意喚起しているということらしい。そのおむつ好きアカウントは赤ちゃんがおむつをしている写真を集めているらしく、他の人々と交換を持ちかけたりしているらしい。

 けっこういろんな要素があって、暫く考えてしまった。ざっと思いつく論点は

1)現時点で何が問題なのか
2)「おむつが好き」という人間がどのような害悪を他人に及ぼすといえるのか
3)性的嗜好によって職業選択の自由が制限されたり、他人がその職業に就く妨害をしていいのか
4)インターネット上の一つのアカウントを糾弾して実生活によい影響があるのだろうか

 2、3、4についてはこのおむつ好きアカウントについてだけでなく一般論として考えることである。

 1)は勝手に利用者の赤ちゃんの写真(おむつであろうとなかろうと)を撮ったり、交換しているのが問題になるのではないだろうか。プライバシーの侵害じゃないのか。
 2)からいきなり難しくなる。これはおむつ好きにもいろいろいて、実際にはわからないというのが実際のところだろう。人には様々な性的嗜好がある(と思う)けれど、それと普段の生活態度や仕事意識はまた別だ。
 3)は他人には介入する権利はない。水着姿に興奮する人物はライフセーバーやプールの監視員になってはいけないだとかスーツ姿に興奮する人物はスーツを着用する会社に勤めてはいけないとは言えないだろう。その嗜好を本人が明言すると周りの人間から敬遠されることはあるかもしれないが「どのような人物がこの職業についてはいけないか」は定めることはできない。
 4)は注意喚起という言葉があったので思ったのだが、このおむつ好きのアカウントは匿名である。どこの誰かはわからない。その後アカウントを消したらしい。では、この一連の動きは何のためになるのだろうか?そのアカウントが消えて何かポジティブな影響があるのだろうか?どんな注意喚起ができたのだろうか?

 もし自分の子どもを他人に預けるとすると、その人間は信用出来るのかという判断をした上で預ける(預けない)。これしかない。インターネット上でおむつが好きだと明言しているアカウントを発見しても、そのインターネット上の情報が自分の実生活に適用できないと意味がないのである。ので、RTして拡散しておむつ好きは姿を消して、一体何が進んだのか?と私は思う。これはよくわからない。拡散した目的もわからない。

* * *

 このように今後も日々感じたつまらないことを雑に書いていこうと思います。Twitterに書いてたんだけど、Twitterに書くには自分の考えが長くなってきた(合わなくなってきた)気がするのでこちらに。

第18回:思想の正しさを担保するもの/ガイド(標識)としての他人の考え

今週の一曲

今週の一曲を冒頭にもってくればこの音楽を聴き乍ら文章を読めるのでこっちの方がいいかなと思いましたのでやります。
www.youtube.com
武満徹の波の盆
とてもうつくし

本文

 私は私の経験から、ものの善し悪しを個人的に判断する。その判断が、ある程度の普遍に適応出来ると思える場合には意見として言ったり、書いたりする。覚醒剤はやらない方がいいとか嘘はつかない方がいいとか、できればなにものをも殺さない方がいいとか。その判断はあくまでも私の個人的な覗き穴から覗き見た普遍であって、その仮の普遍の有り様に適さない人も多くいる。

 その人がどのように考えたかということと、その人がどのように行動したか、生きたか、ということはピタリと合致しない。すくなくとも合致するケースは少ない。それは考えや姿勢というもののあまりの豊かさ大きさ故に、現実の出来事の小ささと比べられないからだろう。毎日なんらかの食事をとらなければならない存在にとって、なにものをも殺さないというのは至難の業だ。その現実に比べて、できればなにものをも殺さない方がいいという考えはあまりにも大きい。理想という薬罐から現実というコップへ水を注ぐとほとんどが溢れてこぼれ落ちてしまう。理想や思想というものはその大きさそのものだともいえる。

 誰かに何かを伝えようとするということは、自分の意見をなんらかの根拠をもって伝えることだけど、その意見そのものには正しさや普遍性はない。ない?ないと思う。意見そのものには正しさは宿りえない。仮に最良なものとしても中立なものだといえる。

 私は倫理的な読み物としてモンテーニュの『エセー』が好きだが、モンテーニュが正しい意見を持っていると確信しているわけではなく、私は『エセー』のなかに自分の行くべき方向を見る。『エセー』はその方向を正しく指し示しているように感じる。絶対的な価値としての正しさではなく、方向を指す機能としての正しさ。「ロサンゼルスへ行くにはこの方向」といった目的への方向の正しさである。わたしは『エセー』によって示されたモンテーニュの考えやその総体を、標識や道端の(正確な)ガイドとして捉えている。
 モンテーニュ本人にとっての『エセー』は自分自身の考えを正しく言い表したものなのか、それとも自分のたどり着きえない理想の姿だったのか、あまりにもヒドい現実の自分から距離をとるためのものだったのか、それは私にはわからない。モンテーニュは実際にはどのような人間だったかということはあまり重要ではない。日常に起こる具体的な出来事は思想にとっては周到に張り巡らされた罠のようなもので、いつだってその小さなつまずきを誘う。私は『エセー』の中で示された思想、考えのようなものとモンテーニュ自身の振る舞いとは分けて考える。というか、他人と他人の考えはそういう捉え方しかできないと思う。

 ということは、私たちは少なくとも頭の中は正直でないといけない。その行動には小さな齟齬があるとしても、その人の中にどのような思想や理想があるのか、ということには嘘をついてはいけない。私はなにものをもを殺さない方がいいと思う。しかし私はなにかを殺す。その際に私は「これは殺したことにならない」と捉えてはいけないと思う。私は何も殺していないが故に私の考えの正しさを立証することはできない。私は正しい者ではない。「私はできればなにものをも殺さない方がいいと思うが、殺した」と正直に捉えるべきだと思う。行動によって思想は正当化されない。思想にとってもっとも重要、かどうかはわからないが、少なくとも守るべきものは正直さである。思想は私よりも大きなものであり、正しくない私によってねじ曲げられるものでない。私のためにあるものでもない。

 私は(たぶんモンテーニュのように)私の書く文章や、わたしの考えの通りの人間ではない。現実にはかなり使い路のない、怠惰で、過ちをくり返す者だと自覚している。しかしそのことと、考えや思想はじつは別のものなのだ。考えや思想は誰かのものという小さな限定的なものでなく、まるで数学の定理のように普遍に(どこにでもあるように)永遠に存在する。卑近で小さな人間にもふと宿る普遍的な考え、そこに思想というものの高貴さ、永遠と呼ばれるなにか美しいものがあると思う。

というわけで今週は以上です。

Twitterにもいます


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第17回:一体感って一体何?

はじめに

 八月三日に放送された石野卓球DOMMUNEでの四時間DJを聴いていたんだけど、現場もTwitterのタイムラインもたいそう盛り上がっていた。そこには一体感(としか言えないもの)が感じられたのと、それと同時にすばらしいものを体験しているような幸福感があった。*1

 で、次の日になって「一体感ってなんだ?」と考えていたのでそれについて書きますね

一体感とは

 一体感という言葉には快楽の体験を含んでいる。その快楽の種類は情報のやりとりや一致、要するにコミュニケーションの成功(誤解でもある)によるものである。一晩同じDJを聞いてピークを迎えたそのとき、隣に立っている人間と自分は同じ感覚を共有しているという実感(誤解)。これは「情報を共有する」という快楽で、音楽だけでなく様々な瞬間に顕われる。100m走でゼロコンマの時間を競った相手との時間の共有や、皆既日食の瞬間を共に過ごす体験、同じ映画を見る事や同じ本を読むことなども同じ「情報を共有する」という快楽だと言える。もう一ついえば相手になにかを説明して相手になにかを伝えること、端的に言うと「教育」も快楽の一種であると言える。
 そういったコミュニケーションの快楽というのは「情報のやりとり」や「情報を共有できた」という地点に着いて(実感して)から感じるもので、一体感は後者にあたる。一体感とは情報を共有したという実感によって引き起こされる。

 他人に「情報を的確に伝えること」そのものに快楽がある場合(経験的にはあると思う)そのもっとも純粋な形はなにか?と考えると、子どもを作ることとなる(子どもを育てることではない。後述する)。親から子どもへはどうしようもないくらい純粋な情報が伝わってしまう。これを超える純度の高い情報の伝わりはない。もしあると思われる方は教えて欲しい。

 「子どもを育てる」際の情報の伝わり、それは自分を含むすべての他者からの教育と言い換えてもいいと思うんだけど、これによる情報の伝達は(数学とかピアノの弾き方とか言語とかロケットの原理とか女の子の口説き方とか)生殖による情報の伝達よりも正確ではなく、強度も弱い。一代で消えてしまう可能性のあるものばかりだ。たとえばモーツァルトやバッハの末裔が今も世界の第一線で音楽をやっているのか私は知らないし、ミケランジェロやレオナルドの末裔が今も天才やってるのかわからない(不勉強ですいません)。少なくともモーツァルトやバッハ、ミケランジェロやレオナルドほど有名でないという時点で後天的な情報(他人からの教育によって伸ばされた技術など)の伝達は完全なものではないのではないかと思われる。
 でも顔は似てると思う(織田信成くんすごいよね)。親子って似る部分はどうやっても似る。たとえ産まれてすぐに引き離されても似る。顔とか、身体の骨格だとか、なんか貧乏ゆすりするクセとか、異性に対する好みとか、そーいう本人にもどうしようもない部分はばっちりコピーされてその血筋に脈々と受け継がれている。

 ちなみに去年あたりに(追記:2014年でした)、一度なにかを危険なものだと学習したマウスの子のマウスにも(その体験をする以前から)そのなにかを危険と感じる反応が認められたといった実験結果が出たという論文があった。うろ覚えですが。

※(追記)検索したら関連する紹介記事ありました。参照。

alchemist-jp.at.webry.info

www.sotokoto.net

上記の例は親の「経験」「学習」というものが次世代に引き継がれる可能性を示唆していますね。

まとめ

 ということで後天的に他者と共有する情報よりも先天的に親から受け継ぐ情報の方が圧倒的に(正確に伝わるという意味で)強いと言え、さらに「情報を共有する快楽」のもっとも純粋な形式は子どもを作ることであるとも言える。他人と感じる一体感とかなぜか気が合うとかツーカーの仲だとか阿吽の呼吸とか尊敬する教師から大切なことを教わることとかっていうのは、それが他人となぜか起こるのは奇跡的で気持ちいいことなのかもしれないけど、子どもに自分の情報がほとんどごっそり自動的にコピーされるという構造的な快楽にはかなわない。

 「情報を伝える(共有する)」という快楽は、子どもが出来た時点でもっとも至高の体験が(じつは)達成されている、というのはとてもおもしろいことだと思います。

今週の一曲

www.youtube.com
 冒頭で述べた石野卓球DOMMUNEでの4時間DJは、石野卓球自身の関わった作品のみの選曲という(実際に現場でDJして稼いでいるプロのひとには)珍しいコンセプトでした。バンドのライブとかだと全曲自分の作った曲っていうのは珍しくないかもしれませんが、プロのDJでこれは珍しい。本人の曲があまり聴けなくて、たまに流れると盛り上がるっていう感じです。不思議ですね。で、その日にかかったこの曲、エレファントカシマシ浮雲男の石野卓球リミックスです。こんな仕事してたんですね。知らなかった。

蛇足

 子どもを作ること(情報の伝達/共有)に対して、子どもを育てることはまた別の快楽なのかもしれない。そこは「あたらしい情報を得る快楽」に関係してるんじゃないかとか思う。というのは、伝達/共有はすでに済んでいるし、その時点からではもっとも自分に近い他者として、子どもから自分がどんな情報を受け取るかという知的好奇心に変わるのではないだろうか。それに興味がないと育てるのも厭になってしまうのかもしれないけどよくわからないですね。

 というわけで今週は以上です。

*1:このような実感はうまく言語化出来ませんが、いいDJを聴くとこの何ともいえない感覚はわかってもらえると思います。みんなブログなんて読んでないでクラブへ行きましょう!