紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:Squarepusher、当時からすでにノスタルジア/乗り合いタクシー料金計算法/いままで人から聞かされてきたことは…

 Shobaleader OneというのはSquarepusherことTom Jenkinsonのバンドプロジェクトなんだけど、Squarepusher名義の曲をShobaleader Oneがバンドとして演奏した曲で構成されている『Elektrac』というアルバムを2017年3月に発売するらしい。
bleep.com

 で、このアルバムのシングルカット…というか(カットされないので)試聴や発売前Video(Audio)として発表されているのが「Journey to Reedham」という曲。
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この曲はSquarepusherのファンの中でも、最もといっていいほど人気のある曲なのでこういったある意味ベスト盤に収録されるのも当然だと言える。この曲が初めて収録された音源は1997年発売の『Big Loada』というミニアルバムであり、Squarepusherとしての1stアルバムが96年なので最初期の音源ともいえる。

Big Loada

Big Loada

 20年前の曲なので「懐かしい曲」であり、と同時に、この新しく再演された曲のYoutubeへのコメントとして

“ Those endless melodies give me such nostalgia. ”

というのも二重の意味があって、私も20年前に初めて聴いたときからすでに懐かしいような気持ちになったのは覚えている。20年前の懐かしい曲でもあり、懐かしさや郷愁というものを抽象化してそこに掴んだ曲だったのだと思う。そして私の個人的な陰影もそこに反映されてしまって、その音が鳴っていた私の部屋や思い出があって、やはり20年前のバージョンの方が私は好きですね。
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 先日タクシーに知らない人と(知っててもいいんだけど)乗り合いした時の最適な支払い方法を車内で考えてたんだけど、例えば他人二人、自分含め合計三人で乗る場合、発→A→B→C地点と経由、三地点はほぼ通り道として、一人目が下車するA地点までの料金が例えば1000円(初乗り料金混み)なら、それを三で割った料金を一人目が払う(333円)で、二人目が下車するB地点までA地点からさらに1000円かかるとして(メーターは2000円)1000円分を二人で乗ったから1/2の500円とA地点までの333円を払う(833円)。B地点からC地点までさらに1000円かかるとして三人目は一人でその1000円と、A地点まで乗った333円、B地点まで乗った500円を足した1833円を払う。A地点まで乗った人が払った333円、B地点まで乗った人が払った833円と自分の1833円を合計して運転手に渡す。一円くらいは余分に出そう。たぶんこれが最適。
 単純にそれぞれの人が下車する時点のメーター分を、乗っていた人数で割った料金をその都度算出しておくという事ですね。さっきの例では一人目は1000円地点まで333円、二人目は2000円地点まで833円、三人目は3000円地点まで1833円で行ける事になる。
 なんだけど果たして酔っぱらっていてさらにその場で乗り合わせただけの他人にこれ理解してもらえるか微妙だなあ。つーかそれくらいの料金計算はタクシー会社のメーターに組み込んどいてほしいな。もしくはタクシーの運ちゃんの持ってるiPhoneにアプリとしていれとくとか。え、これもしかして売れる?いやーあんまり乗り合いする機会がなさそうだけど。
 だいたいみんな知らない人と乗り合いするようなときは酒飲んで気が大きくなってるし払いすぎちゃって結局最後まで乗る人が得するような事って多いんじゃないかな。といっても自分が払う時の目安につかえますね。

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 D・アダムスの人気小説シリーズのひとつ『さようなら、いままで魚をありがとう』のなかでいい表現があったのでここにメモしとく。飛行機に乗っているおばあさんがふと窓の外に目をやると、主人公と彼女が空を飛びながらイチャこいてるのが見えたときの描写です。おばあさんはまさか人が空を飛べるなんて考えはないものだから、

いままで人から聞かされてきたことは、なにからなにまでまちがっていたのだ。そう思うと、急にとても心が軽くなったような気がした

 となる。
 他人の言うことなんてなにからなにまで間違ってる、とまでは言わないけど自分とは関係のない物として眺めるのがいいかもしれないですね。

雑記:夜になっても遊びつづけろ/一人になっても問いつづけろ

 金井美恵子の本に『夜になっても遊びつづけろ』というかっこいい日本語があるんだけど、夜になっても朝になっても遊びつづけて次の日そのままさらに遊ぶという日がたまにある。で、先日久しぶりにそのような状況になった。
 朝まで遊んだ友達の家で少し寝て、そして起きてさらに遊びに行く準備をしているときに「ああ、これはしんどいな」と思った。しんどいのは肉体的にだけではなくて、このままの自分を引きずって町に出るのはみっともない、町に似合わない、といった精神的なもので、この感覚は以前にはあまり感じなかった。
 たとえ自分が町でいちばん薄汚れて疲れていても、べつに平気で気にしないという時期がある。あった。しかし先日は、この自分はみっともないから町にいるのははばかられるなと感じた。ゆっくり寝て身体をきれいにする必要があるなと思った。なぜだろうと簡単に問うと「それが老いなのだ」と簡単に答えてしまいそうになるけれど、それが正しい問いと答えのセットなのかはよくわからない。

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 先日友達と話していて「さびしいと感じることはあるか?」といったような話題になって、自分はうまく答えられなかった。そのときの自分の中にあった「さびしい」という言葉に対する感覚と、その感情を実際に自分が感じているか疑問だった。ので、家に帰ってから「さびしい」を辞書でひいた。大辞林にはこうある。

さびし・い【寂しい・▼淋しい】
1)あるはずのもの,あってほしいものが欠けていて,満たされない気持ちだ。物足りない。さみしい。
2)人恋しく物悲しい。孤独で心細い。さみしい。
3)人けがなくひっそりしている。心細いほど静かだ。さみしい。
〔「さぶし」の転。中古以降の語〕

 ついでに「さぶし」もひいてみると

さぶ・し【▼淋し】
心が満たされず,楽しくない。さびしい。「山のはにあぢ群むらさわき行くなれど我は—・しゑ君にしあらねば/万葉集486」〔本来,あるべきものが欠けていて,気持ちが満たされない意を表す語。中古以降「さびし」の形で用いられる〕

 とのことだった。この定義で私は意を得てすっきりした。これは各人の人生観によってさびしいと感じる人とそうでない人とに別れるなとも思った。
 私が生きていることや私の手にしたもの、私の手に入らないもの、それらすべては巡り合わせの運と縁によるもので、じつは私にはどうしようもない。偶然という推進力によって自分の人生が運ばれているように感じる者からすれば『本来,あるべきもの』や『あるはずのもの,あってほしいもの』といったものを強く感じることはない。
 『2)人恋しく物悲しい。孤独で心細い。さみしい。』という感情も、特別な機会にわざわざ感じることではなく、自分が個として存在し、そしてそのまま個人的に死んで消えていくことや、その事実の上に成り立っている世界というものは、前提として孤独で寂しいものだと思う。
 要するにさびしさというものは時間と同じように生きているかぎり自分の人生に常に横たわる基本的な構成物であって、何かがあって殊更に感じるようなものではないと私は思っているのだと思う。生きているという状態にとって当たり前のことはわざわざ感じたり意識したりする必要は日常殆どない。

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 他人に問われてうまく答えられなかったことは、後になってもしばらく考えることになる。他人というのは自問しない形の問いを自分に投げてくれるものでもある。と同時に、問い方というものはほとんどその答えと同じでもあって、他人の問い方に自分がうまく答えられないのもそのたびによく理解する。他人の言葉による問い方では自分の中に答えが生まれてこなかったから、自分は別の言葉の組み合わせを使ってなんとかその問題を明確に、答えやすくしようとする。

 問えないものには答えがない。

雑記:矛盾すること、自分だけにしかできないこと

 人は矛盾する。ひとは自分の行いや考えが矛盾していると気づいても、それをする。それをすることができる。矛盾したことを行うというと悪い意味のようにとれるが、それは違う。矛盾する、ということが人の特殊であり豊かさなのだ。自身の矛盾に気づいても、矛盾を抱えたままでも生きていくことができる。矛盾した存在であることこそが善さだ。これができる存在はほかにあるだろうか?まあある/なしの特殊性はおいといても、とにかくこれがすばらしいことだ。矛盾せず合理的なことだけを行うだけでなく、矛盾を抱えているからこそいつもと違う道筋や可能性がつねにある。その存在や言動が矛盾し、且つ動くようなプログラムを作り出すのは可能なのだろうか。かなりの難事業なのではないだろうか。

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 ニュートンの生きていた時代からずいぶん時が経ったので、ニュートンよりも日本のいまの高校生のほうが物理学的な知識はあるんだけど、謎を自分で知ろうとしたり探究するってことは日本のいまの高校生の誰もがやるわけではない。てことは、ニュートンはいまの日本の高校生よりもものを知らないくせに、情報がないくせに(それはものを考えるということにおいて、とてつもなく不利なんだけど)自分でものを考え続けていたってことになる*1。すると、あのニュートンですら自分よりも頑張ったんだから、ピカソよりも絵は下手だけど絵を描こうとするとか、レイチャールズより下手だけど歌を唄おうとするという姿勢は肯定できる。
 何がいいたいかというと、どんな条件でもいまの一流の人とくらべたらめげちゃうんだけど、昔の人とくらべたら自分のほうがはるかに有利な地点にいるってこともあるということです。(ピカソはちょっとおいといて…でもピカソより恵まれた画材や教材には出会える確率は高い)それを差し引いても技術や到達点としては昔の人よりもボロ負けってこともたくさんあるけどね。
 でも量子論、宇宙物理学の分野については100年後の高校生が無茶苦茶羨ましい。いまの天才が片腕を失ってでも知りたいようなことを、彼らはあっさりと知っているだろう。
 ニュートンもたしか自分の発見は過去の巨人たちの肩に乗せてもらっただけとか言ってたと思う(これも出典は忘れた)。知識に関しては後に生まれるほど有利なんだよな。だから人類がずーっと繁栄しつづけていくというのは知のあり方(先人の知を積んでいくこと)としては正しいし、意味があると思う。

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 ニュートンはさらにこんなことも言っていて「真実という大海に比べれば、私の発見したものはその浜辺に打ち上げられる小さな貝殻や小石のようなものでしかない」みたいなこと。これも出典を忘れたし文言はテキトウなんだけど要点はこの通り。ようするにニュートンでも知れないことの方があまりにも多かったし、ゲーテでも書けないことの方が多かった。ピカソも沢山の作品をつくったけれど(12万点とか。これはギネスブックに載っている)それでもピカソの描けなかったこと、描かなかったことの方が多い。
 もしあなたがなにか自分にしか知れないことや書けないこと、描けないことを表現できたなら、それはそこにしかない。どんな古今東西のどんな天才にもそれはできなかった仕事だ。

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 今週の一曲
Fashawn "LIfe As a Shorty" feat J. Mitchell
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 ビデオにはちらっとprod.Exileと出るんだけど、これはたぶんはとぽっぽをサンプリングしたFor The KidsのExileですね。これも名曲です。
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*1:まあニュートンが自分で学んだことや発見したことだけですでにいまの高校生を超えてる可能性は十分にあるんだけど