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紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:美人に向いている仕事

雑記

 顔が整っていてスタイルもよく、全身が好ましい外見に生まれたということを最も活かせる仕事ってなんなんだろう?美人であるということを特技とすると、どんな仕事に向いているだろうか?

 というのはふとテレビを見て、「美人」というものの捉えられ方/価値は変わった、変わっていくだろうと思ったからだ。演技の下手な美しい人、歌の下手な美しい人がテレビでその芸を見せていて、そこには芸と呼べるほどのものはなくて、といって美しさだけをありがたがって受け取るような人はさすがにもういないだろうと思ったのだ(実際にはまだいると思うけど)。美人が珍しくなくなるわけではないが、映画やドラマやYoutubeやAVに美人が出ているのは珍しくない。しかし作品として洗練されていくと、出ている人の美しさよりも演技力やリアリティや人間性や必然性が求められるだろう。テレビも映画もYoutubeもAVも、見た目がいいってだけの人が映っていても「もうそこに価値はあまりないんだよな」とか思うわけだ。要するに美しさだけでなく何か特別なもの、必要なものが求められるようになっていく。テレビ番組が初めて放送された頃なら美人が映ればそれでよかったのかもしれないけれど、美人であるというだけのことはもうメディアに映す程のものでもなくなった(ていく)のだと思う。

 とすると、例えばうちの子どもが行く先々で「この子は算数がとてもよくできますね」と言われるなら、(本人が望むなら)そこを伸ばせばいいと思うし、いづれ数学家になるということも視野に入れていいと思うんだけど、行く先々で「この子はとても美人ですね」と言われても、とにかく見た目が影響しない分野でもなにかひとつ頑張った方がいいと私は思うだろう。

 冒頭の問いに戻ると、見た目の美しさだけで向いているといえる仕事や、通用する世界というものはもうない。言い換えると、自身の見た目の美しさだけで通用する範囲で満足すると、すぐに人生に飽きるだろう。

雑記:ブラーエとケプラーの交流/問えない問いについて

雑記

 物理学者の講義をYoutubeで聴いていたら、ティコ・ブラーエが二十年間夜空を観察してつけた記録をヨハネス・ケプラーが二十年間研究していた(その結果、惑星が太陽の周りの楕円軌道上を移動しているという有名な第一法則を含むケプラーの法則を導いた)という話を聴いた。そのときふと、ケプラーがブラーエの観察記録を研究している間、この二人の間に…というかケプラーの中には、ブラーエに対して濃密な人間関係のようなものが形成されていたんじゃないかと思った。ブラーエの残した(個人的な)仕事が、なぜか自分の大切なもの(仕事)の助けになるという一体感。簡単に信頼といってもいいかもしれない。それって互いの個性とか人間性とか超越していてすごく素敵だと私は思う。

 おそらくブラーエがその記録を残している際にも、自分に似た(興味の方角を同じくする)未来の誰かに対する真摯さのようなものを持っていたと思う。お互いの信頼のようなものは、時と場所を隔てたそれぞれ別の時空で互いにちぐはぐに生まれたものなんだけど、これがすごくロマンチックに自分には思える。個人的な作業が自分の与り知らぬところで勝手に誰かに受け継がれたり通じたりするのだ。学問の世界にはこういったことが起こる。学問だけじゃなくて芸術や習い事でもいいんだけど、誰かの残した仕事を誰かが参照したり、分析したり、受け継いだりするということだ。

 一つの存在として生きている人間として誰かに好ましく思われるよりも、自分の仕事や作品が後の誰かに届く方が私は好ましく思う。なぜかはよくわからない。ぼんやり感じるのは、作品というものは自分よりも長生きする別の自分であり、人間は自身の有限性を少しでも超えようとするところに善を見いだすのではないかということだけれどももちろんわからない。

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 先日、自己紹介をする機会があって、いつも困るのだけど、とりあえず「ヒマなときには本を読んでいる」と言った。するとだいたい「どんな本を読んでいるのか」と問われる。それに答えると(宇宙/素粒子物理学脳科学、ドラッグ、哲学、倫理学、美術、悟り…)「なぜそんな本を読んでいるのか」となる。ここまでセットになっている。三つ目の問いに対しては自分でもちゃんと答えを作っておかないとなと思って、考えてはいたのだけれど、中座していた。基本的には好奇心があるのだと思うけれど、何に向けられた好奇心なのかがはっきりしないのだった。いや、根底には「死とはなにか」という問いがあるのだけれど、その問いと上記ジャンルの本を読むことの間に、どのような関連を見いだしているのか説明できなかったのだ。けどたぶんこれが答えじゃないかと思うものを思いついたのでここに書く。

 死というものは、それをそのまま考えることができないが故に、それ以外のものごとを通して(アナロジーとして)推測するしかない。ということは、死を考えるために死以外のものを学ぶことになる。ニュートンが地面にリンゴを落とした現象と、月が地球から離れてしまわない現象を結びつけて万有引力の法則を導いたように、今のところ自分は「宇宙/素粒子物理学脳科学、ドラッグ、哲学、倫理学、美術、悟り…」について知ることから死というものを考えようとしているところなのだと思う。これだ!

 死を考えるということは結局は「絶対に答えのでない問いに対して自分はどうふるまうのか」ということである。悪あがきをするかしないか、どのような悪あがきをするのかということで、できることは結局悪あがきでしかない。ということはいくら自分の中でその悪あがきに理路を認めても、客観的にはそこに論理だった理由はないのかもしれない。

 というところまで含めて「なぜそんな本を読んでいるのか」と問われたら、これには沈黙するしかない。本が好きなんですとしか答えようがないし、事実それだけなのかもしれない。

蛇足:
 (宇宙/素粒子物理学脳科学、ドラッグ、哲学、倫理学、美術、悟り…)
のうち、「宇宙/素粒子物理学脳科学、ドラッグ、哲学」についてはおおよそ死について知るために読んでいる。他にも数学や人体や社会、集団とはなにかといったものも含まれる。

 「倫理学、美術、悟り…」についてはどのように生きるかを考えるために読んでいる。他にも宗教や過去の人物の伝記、テクノロジーや文化といったものについての本もこちらに分類される。

 生きながら死について考えないといけない/そのために死んではダメ、というところが生と死がかなりよく出来ているところだと思う。まず生きることについて考えないといけないのだ。そのサッカーの試合中にしか存在できない選手が、サッカーの試合後どこに夕ご飯を食べにいくかを考えることができないように、生きているという構造上どう考えても死について考えることはできない。するとまず大切なのはいかにサッカーの試合をプレイするのか?ということで、それだけで十分でもある。だのになぜか試合後のことについても考えようとするところに謎と矛盾と美しさがあるように思う。

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 その昔ティコ・ブラーエの油〜絵というギャグを考えたんだけど一度も使っていない。油絵はともかくティコ・ブラーエがわたしの生活圏ではマイナーなので誰にも通じなさそうなんだよな。

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 今日の一曲
www.youtube.com
フィリップ・グラスによる劇伴曲。ミニマル・ミュージックと呼ばれるもののかなり原初のものだと思うけど、人が演奏しているのでテクノものよりもフレーズにぶれと幅がある気がする。録音の反復かもしれないけど…『海辺のアインシュタイン』という意味不明で最高のアルバムタイトルもいい。オススメの一枚です。

雑記:嫌いなものでも懐かしい

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 今夜はブギー・バックにのせて展開する東京のファッション文化史40年をおさらいする映像を去年見たときに思ったことをTwitterに投げといたんだけど、それをまとめておこうと思う。思ったのは、やっぱ流行やスタイルってそれを作ろうとしてるひとによってできるものなんだなとか、残る文化は少ないなとか。

 私は「今夜はブギー・バック」って曲が当時から大嫌いだったんだけど、こーいうふうに当時を振り返るときにとりあえずの参照としてやはり使われる(当時流行ってたから)。でも当時流行ってたっつっても知ってる人しか知らないようなものなんだけど、だけれどもそれを起点にされてしまう。この曲がある時期のある文化のある文脈を担っていると解釈している人が比較的大勢いるからだ。40年後の少年に「大昔にAKB48って大勢のアイドルの人たちがいたんでしょ?」とか聞かれたときに、とにかく自分が当時AKBが大嫌いで、できるだけ彼らの情報を入れないように生活していたとしても、40年後の少年よりは明らかに近しく知っているが故に「いたね。歌を唄ったりジャンケンしたり握手会したり、いろんな活動をしてたんだ」とか説明することになる感じというか。興味ないなりに当時のものと関わらざるを得ない感じというか。

 そして、たとえば今回のTOKYO CULTURE STORYみたいな映像にとりあげられなかった人たちや文化というものはやはり消えていく/消えている。そのマイナーだったものやひとを大事にしていた人や好きだった人がいても、参照する元の情報や今でもそれを覚えている人の数が少ないからこそ(共有ができないから)消えていく。自分の中にしかないようなものは、もうすでにどこにもないのと同じようなものだとも言える。過去を共有したり振り返るための道具は、当時流行っていたもの、みんなが覚えているものなどに限られていく。

 自分はその当時生きていたから、TOKYO CULTURE STORYみたいな映像を見ると、そこには当時ムカついたものが沢山映っていたとしても「懐かしいな」と思う。それはただの昔の出来事として、興味ないなりにかつて鳴っていた音のようなものとして、それを思い出すことができる。と同時に、その当時自分がムカついてたものをいま率先して掘り返してくる人はいるんだな、とも思う。これが作られた文脈なのだ。当時の東京にいた誰か(大勢)の作った「90年代ってこうだったよね」みたいな文脈が(だいたい東京という世界最大の内輪向けのものだから)それに死ぬ程ムカついていた自分にも、それ以外の歴史的文脈が残っていないが故に「90年代ってこれだったな…」と適応されてしまうというか、理解ができてしまう。

 当時これが流行ってたし、みんなこれ知ってるでしょ?懐かしいでしょ?みたいな感覚ってなんか世界が狭い感じがするんだけど、多くの人が共有出来るものしか残らないのだ。そして実際に私はAKB48というアイドルグループがいま存在していることを知っている。40年後の少年より遥かに知っている。そもそも何かを懐かしむって行為を他人と共有しようとすると、他人と同じ(と誤解している)情報を共有している必要がある。AKB48を通して2010年を振り返るほうがフィンランドのノイズグループを通して振り返るよりも簡単、というか後者はほぼ不可能なんだよね。自分の中にしかない文脈は誰とも共有出来ないから文化や記憶として残らない。

 あとに文化として残るものはみんなが知っているもの/部分で、まあそれはみんなが知っているからこそ残る、誰も知らないものはそもそも残りようがないってことを思ったのだ。そして流行りのものが嫌いでも、それを知っていて共有出来てしまうが故に、それを残していることにじつは自分も加担しているのだ。あな恐ろしや。
 …てことは自分しか知らないことでもそれを流行らせることができれば後に残すことができる。で、まあそーいうことをしようとして実際にしてるのはだいたい東京での出来事ってことだった。今後は(インターネットがあるから)わからないけど。(でも無理そう)

 だからこそ、せめて個人的な何かを表現しようとするならば、多くの人もが受けたであろう影響や体験でなく、個人的な影響や体験をこそ作品に反映するべきなんだろう。独自のもの。

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 とか言っていると、ふとTha Blue Herbを思い出した。ブルーハーブは初期のころ…といっても初めて聞いたのは2000年ちょい前くらいだけど、その文脈が凄く新鮮で最高だった。やっぱこーいう人いるんだとか素直に思った。懐かしいのでブルーハーブの曲を紹介して終わります。

www.youtube.com
音はよくないしよく考えたらこれは刃頭とイルボスティーノ名義だけどまあいいや。