紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170705 - 共感するのはむずかしい

共感するのははむずかしい


引用も一応

一昨年死んだ独身の叔母さん
最後に会った時、会話に困って音楽の話して、何聴くのか聞かれて、「ゆら帝とか」って答えたら「へぇ」で会話が終わったんだけど、亡くなってから遺品整理で部屋掃除してたらアルバム全部あるし坂本慎太郎が出た雑誌の切り抜きとか残ってたんだけど、反応薄すぎない?

 この話、自分もこーいうところあるなと思いながら見知らぬ叔母さんの事を思った。どんな心情だったんだろうか?私の場合はなんか照れくさいというのがだいたいの理由なんだけど。

 私もふと知り合った人と好みの音楽が似ていてもあまりリアクションしない。まさに「へえ」と言って終わる感じ。他にこれと似てるケースなのは女の子が髪の毛を切ってたり化粧やスカーフが違ったりしてもそれを言えないとか。恥ずかしくて…。あるていど歳をとるとふざけたりキャラを作ったりして多少言えるようになったけど、これは今でも苦手ですね。あとむちゃくちゃ反社会的なのは誰かが結婚したときに「おめでとう…って言っていいのかな」とか離婚の際には「もしかしておめでとうのほうが適してるんじゃ」とか思ってしまうところですね。まあこれは照れというよりは類型として振る舞いたくない/扱いたくないという心理がある。

 たとえばある振る舞いが明らかな礼儀やルールになっていれば、それをするのは道に外れたことでないので技術的に淡々と出来る(心情はどうあれ)。しかし女性の髪の毛の変化に気づいたとしてもそれを指摘するのが100%正解というわけではない(ほぼそれに近いとしても)という場合、それをするのにやはり抵抗がある。相手は類型のうちの一人でなく、ちゃんと個性を持った一人なのだ…といういいわけをしつつ何も言わなかったりするし、ふざけられる空気感ならすこしふざけながら言う。真顔でこれが私の人間性でございますという顔では出来ないのだ。

 と同時に、自身の内面での「何が好きか」や「何に気づいたか」という領域は情報量の多さや「好き」の濃度など、他人と大きくギャップがある場合があって、相手の普通との差が著しくあるとけっこうキモがられたり、もしくは引かれたり、相手が傷ついたり、いろんな摩擦がある可能性があることもある。自分の「普通の感覚」が多くの他人のそれと違いがあると認識している人は、その部分を積極的には出さないという選択をしているんじゃないか、とも思う。

 わたしの「なんか恥ずかしい」という感覚は不思議に他人といろんなギャップがあって、大事な人が亡くなったとか、自分に大きな災難があったとか、感情の揺れ動きがあるとか、相手にシンパシーがあるとか、そーいうことをわざわざ表に出したくない。隠すつもりもないけど、伝える必要性もないと思ってたりするので、後になって「なんでそんな大事なことを言ってくれなかったの」と言われたりすることがある。自分としては隠し事はなく訊かれてないだけなのだけど、まあ普通の人は共有するんだろうなという感覚もあるので隠しているのかもしれない。でも恥ずかしい。

 あとたとえば他人の活動の熱量のわからなさもあって、たとえばそのひとの日常の活動力が20しかない人のうちの18をAというバンド好きにあてている人と、活動力が1000もある人がそのうちの100をAというバンド好きにあててる人がいると、前者から後者を見るとすごく好きのように見えるけど、後者は熱が入ってるというわけじゃないってこともある。極端な例では将棋の羽生さんはチェスでも日本一みたいな感じですね。いや、まあ羽生さんはチェスを片手間でテキトーにやっているわけではないと思いますが…あとピンボールに情熱を傾けているプレイヤーよりもピンボールの整備士の方が遥かにピンボールがうまいという描写がある小説もあった(主人公がなぐさめていた)。なので他人の「好き」とか「それに対する情熱」とかってよくわかんないですね。

 と考えると、その叔母さんの「へえ」にも、けっこういろんなものが含まれてたんじゃないかなとか私は勝手に思う。

 ところで私とこの叔母さんのように、お互いの内面というかその動機はわからないけれど行動はよく似ているということがある。逆に言うと行動が同じでも似た者かどうかはわからない。とするとシンパシーって心情的じゃなくて即物的なものなんじゃないかな〜とか雑な思いつきが今あった。でも共感って他人との間に根拠の橋が架かってないからむちゃくちゃ難しくないですか?わたしはいつも「たぶんわかる気がするけど、私の勘違いじゃないかしら」という気持ちが抜けないので、うまく共感の言動をとることが出来ない。勝手に個人的に感動したり悲しんだりは自由にすぐにしてるんだけど。

今日のBGM : Blank Banshee - Blank Banshee 0 [FULL ALBUM]

www.youtube.com
 Vaporwaveという音楽の大きな主ジャンルがあって、この人はそのサブジャンルのひとと看做されているけれど、棚の少ないレコード屋ではNew WaveとかVaporwaveに並べられるでしょう。私はいわゆるVaporwaveというジャンルの音は好きじゃないのだけれど、Blank Bansheeはエレクトロニック感があって好きですね。どっちかと言うとFlying Lotus以降のベースミュージック界隈の方が音としては近い。Seihoくんとか。Vaporwaveにうまくまぎれて名を売った別人種って感じの音ですね。VW勢との違いははっきりとした音楽的実力がある/ちゃんとした曲を作ろうとしてるってところかなとか思います。ちゃんと検証してないけど。

作業日誌:170704 - Bedの前にBetしろ

セックスを違法にするとおもしろくなる

 しょうもない思いつきなんだけど(そうでないものは私にはないのだが)セックスが違法になったらむちゃくちゃ面白くなると思う。このおもしろくなるというのはセックスすること自体がおもしろくなるということとそれを持ちかける(口説く)ことに独自の趣きが出てくる、味わい深くなるということですね。違法化された世界がおもしろいという意味ではないです。

 なんでそう思うのかを書く前にまず合法化されてしまったつまらなさを書きたい。いや性交渉自体は大昔から違法ではないけれど(売春はアウト…あ、売春はおもしろいのかもしれない)今では婚前交渉というものが(ほぼ)当たり前になってしまったので「それを大事に守る」という感覚が減少している。大事なものや尊厳というものは自分で守るものでもあって、だからこそそれが大切なものになるのだ。そこを安売りしてしまってはそのもの自体の神聖さが失われてしまうという考えが基本にあります。

 「出来るかどうかわからない」という相手とのセックスの方が「どーせできるだろう」と思っている相手のものよりも成功すると嬉しいように、セックスが「だれでもいつでもできること」になると「特定の相手だけと特定のときにだけしかできないこと」よりもつまらないものになる。そこの価値というものは減ってしまう。ほんとうに大事なものはシェアしてはいけない。いまは「恋愛」というコマーシャルな思想がはびこっているのでセックスは「だれでもいつでもすること」になっている。もちろん「だれでもいつでも出来るわけじゃねえよ」という意見はあるでしょうが、ルールとしてはとてつもなくユルい判定、多くの人が当たるくじ引きを引いている状態だということが言いたいわけです。誰かとセックスが出来る条件はオリンピックの金メダルを取るようなストリクトな条件とくらべると「だれでもできる」ということですね。

 しかしこれが違法化されると相手を口説くとき、「結婚しよう」と言うことが「付き合おう」と言うことよりもリスクを負っているように、あなたとセックスがしたいのだと言うことにものすごいリスクを負うことになる。そこには(現在失われつつある)真剣さというものの影を認めることが出来るでしょう。「こいつは異常な犯罪者かもしれないがこの気持ちは真剣かもしれない」と言われた方は思いやすい。だれにでも言ってるとしたらマジでイカれているがそれはさらにおもしろい。それにある意味では危険で社会に反したことを二人で協力して行うということの魔力もあります。なんか抽象的なことばかり言っているな…とにかく平和な日常にふと差し込まれる危険で真剣な交渉。これがつまらないはずはないです。

 と考えると、やはり口説くということにお互い(ほとんど)何も賭けていないというのがセックスをつまらなくしていると言える。極端にいえば嘘でも言ったものがち、口説いたものがちになってしまう。するとだれにでもそれを平気で言えるやつがジョーカーになる。で、実際は好きであれば/付き合っていればというゆるゆるの基準によってだれとでも平気でセックスしているという図式に近いものになっていて、恋愛という文脈を利用すれば嘘をうまくつくことによってほとんど何も賭けずにセックス(と交渉)が出来る。ああつまらない。

 ところで売買春は多少の金と危険をお互いに少し負っているのでふつうのセックスや交渉よりも楽しいのだろうか?そこは経験がないのでよくわからない。だれか経験のある人がいれば教えてください。よく(冗談で)言われる話に麻薬やギャンブルを合法化すると中毒者は減るだろうというものがありますが、逆に言えばリスクを負っているというのは楽しくもあるのだという話?でした。

おまけ

 なんでこんなことを考えたかというと、もし皇族のひとを好きになったとしたら、自分が何も賭けずに生半可な気持ちで口説いたり出来るわけがないと思ったからでした。いまはほとんどセックスは何も賭けずに出来ることですが、ある個人とある個人の間にはちゃんと尊厳やほかのいろいろがBetされていることもあるでしょう。相手が誰であれそーいう人間でいたいですね。

さらに追記

 だからみんな不倫するのかもしれない…というあたりまえの結論に達してしまった

今日のBGM : Lofi Hip Hop Radio 24/7 Chill Gaming / Study Beats

www.youtube.com
 メロウなビーツが延々流れている24時間放送動画。ちょっと甘すぎる感もありますがだらっとかけつづけて作業するのにいい時もあるでしょう。

作業日誌:170703 - 「もったいない」を我がことのように

「もったいない」を我がことのように

以前に
「もったいない」は不思議なことば
という記事を書いた。
saigoofy.hatenablog.com
 軽く引用と要約をすると

上記ブログ記事には、タイトルの通り京都大学という学校を卒業した女性が、現在専業主婦をしていることを他人に言うと「もったいない」と言われることが幾度かあった、ということが書いてあります。

「もったいない」ということばは、その対象がどうあるかということよりも、その対象を含んだ社会のようなものの不均衡をもうちょっと均せるんじゃないかというときにふと口をついて出てしまうんじゃないかと思われます。

 ということでした。この記事を書いた時は「もったいない」と言う側の心理のようなものを考察したんだけど、じつは「もったいない」のようなニュアンスのことは私も何度か言われたことがあって、その度に「と言われてもなあ」という気持ちだったし、なんというかそう言われるということについて客観的に感じられていなかったなという発見があったので今日はそれを書こうと思います。

 私はほとんど私の言うことしか聞かない我の強いアホの典型なので、もちろん誰かからそのときの現状などを鑑みられて「もったいないね」「こーいうことやってみれば?」などと言われたり、誰かに何か忠告されても「あ、そうですか…ちょっと自分でも考えてみます」とか言ってそのときは右から左、しかるべきときに自分でその考えに至らないと行動しない(しかもなかなか行動に移らない)というぐうたらでかなりな時間を損していると見られてもおかしくなかった。

 しかし上記記事で書いたように「もったいない」と言われるということは、やはりそのひとから見てなにか不均衡のようなものを感じているわけだ。マイケル・ジョーダンがゴルフをしているような…水島ヒロが俳優をやめて小説を書いているような…で、それは自分でもわかっていたとしても「んなもん知るかよ」と思ってしまう。自分のことはおいといてという感じである。これを自分でも客観的に、自分のことをまるでマイケル・ジョーダンや水島ヒロを眺めるように見る事は出来ないだろうかと考えると…出来た。

 それは自分と他人を比べたりせずに、自分と自分の記憶を持った状態で来世に生まれ変わった自分とを比べるわけですね。

 わたしは「自分はかなり恵まれている」とか「日本に生まれた時点でかなりの幸運」と思っているし、そしてまわりや広い世界を見回しても「あいつと人間性を取り替えたい、あいつになりたい」と思うような相手もいなかった。とするともし今の記憶を持ち越して生まれ変わったとしたら、かなりの確率で「あ、前世の方がよかったな」と思うだろう。と考えると、現世でもうちょい頑張った方がいいのかもしれないと。来世の自分を前世の自分よりも気に入らない状態というのは、何をするにも不利なので、来世で何をするにしても今よりもハードルが上がる、と考えると今のうちにちょっとでもいろんなことをやっておこう、時間を無駄にしないでおこうという考えにちょっとなれました。

 ある人がある人に「勿体ない」というのは、言われた方からするとムッとすることではあると思うんだけど、来世の自分が前世(いま)の自分を見て「あのときしなかったのはもったいなかったな」と思うのはわりと納得がいく…と考えるとやっぱもったいないのかもしれないなと。

 ところでマイケル・ジョーダンや水島ヒロさんへの「もったいない」と私自身に向けられた「もったいない」は少し意味が違います。私はとにかくぐうたらなので、多くは私の無為や怠惰に対して言われるんですね。「なんもしてないならなんかしろよ」という感じ。なのでマイケル・ジョーダンや水島ヒロさんを引き合いに出しましたが本当は彼らと私の状況は比べるべくも無いし、彼らは自分のやろうと思ったことをまわりが何と言おうとやるのがいいと思っています。

 個人的には来世というか生まれ変わりは絶対にないと思うけど、アナロジーとして来世から今を眺めるといまの条件の破格の良さ(悪さ)をけっこう客観視できるという発見があったのでここに書いておきます。

今日のBGM : Welcome COM.A
www.youtube.com
 きのうがJoseph Nothingだったのできょうはその弟のCOM.A(コーマと読みます)です。当時はエレクトロニカのアルバムの最後の方にこういう曲が2曲くらい入ってたんですよね。いまでもか。ジャケがチープでいいですね。