紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170707 - 七夕なので七夕の国について/人生で一番の難事業

七夕なので七夕の国について

 今日は七夕なのでこじつけで岩明均のマンガ『七夕の国』を紹介します。『寄生獣』は有名なマンガなので人生で一度は触れる機会があるでしょうが(映画化、アニメ化もされました)『七夕の国』はとんでもなく地味な話なので誰かがわざわざ紹介しないと大半の人が読まずに人生を終えることになるでしょう。この作品、本当に地味なので最初はなかなか読む気がしないと思うんですけれど、面白いです。『寄生獣』によってハードルがあがりまくった後に発表された作品ということで不遇な扱いを受けている感がありますが、文句なく秀作であると思います。定期的に読み返したくなる作品ですね。私はとても好きです。

 話のあらすじはおいといて、このマンガはいったい何を抽象化して一般化して読めるか(私は読んだか)というと、恐怖と恐怖故に何かに囚われることについてですね。恐怖をどのように捉えているかという立ち位置の違いによって必要な数の主登場人物が配置されています。恐怖に囚われていてそこから動けない人間、恐怖に囚われているがなんとか恐怖を克服しようとする人間、恐怖を感じない人間、恐怖に囚われていない人間、と一通りのバラエティが提示されます。この辺が『寄生獣』でも発揮された岩明均のうまいところですね。物語の設定上考えられるかぎりの種類の人物を必要なだけ出す(人を殺す寄生生物、人を殺さないようにする寄生生物、寄生生物と人間のハーフ、人間、人間を殺す人間)という。

 このマンガにはある二つの特殊な能力が登場します。この二つのうちの片方がまさに「恐怖を感じる能力」なのですが、もう一つの能力は「その能力を持っていない者からすれば恐怖すべき力」と映るというところがうまい。その能力は一体何のためにあるのかという問いもこの作品の肝です。恐怖故に何かに囚われることと、誰かから見た巨大な能力というのは…とこれ以上は本編を読んで欲しいですね。

 最後に、あまり引用するとこのマンガの大事な部分を先に知ってしまうことになるのでしたくないのですがとある印象的な一シーンを紹介します。このような会話がなされるということはやはりこの話で扱われるモチーフは、抽象化/一般化されて理解される構造を持っているものなのだと思います。たぶん

「本当にさびしいのは たぶん……自分の死……自分だけがそこにいなくなる……」
「ずっとひとり……千年たっても1万年たっても 暗い場所にずっとひとり とじこめられた……永遠の意識のような……」

「きみは怖いか。」
「はい……とても……」
「あれは夢さ。ただの夢……ただし、恐ろしいほど「悪意」のつまった夢だ……!」
「……おれにも恐れの気持ちはある。……だが必要以上に怖がることはない。」
「あの「悪夢」と戦い、いつか必ず自由になる。おれがそれを証明してみせる」
 岩明均『七夕の国』

七夕の国 (My First Big SPECIAL)

七夕の国 (My First Big SPECIAL)

人生で一番の難事業といえば

 無から有へ転ずるという量子論的な飛躍、この世に生まれてくるということがおそらくいままでで(これからも)一番の大仕事だったのだから、現世でとくに何も為さず、子孫も残さず、そのまま死んでいってもすでに大もうけなのではないかと思う。生まれただけでもうべつに何もしなくて善しというか。

 その思想のためかわからないが、私はあまり頑張らない。何かをできるだけ後回しにして一時間でも多く寝たい。そうしてだらだらすべてを先送りにし、あるとき唐突に自分がいま死ぬときなのだと自覚して、ものすごく後悔してそのまま死んでいくのだろうなと思う(後悔はしそうだ)。私は私よりも先に死んでいく者たちに対して「この人と一緒にもっと○○していればよかったな」と思うよりも、もっと多くのことを死にゆく自分に対して思うだろう。

今日のBGM : Acid House: Artwork Boiler Room x Fac 51 Hacienda x WHP Manchester DJ Set

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 ArtworkのBoiler Roomでのライブ動画。音楽はいいけど盛り上がらないねと評判のBoiler Room、だけど今回のこーいう文化祭みたいなロケーションや雰囲気は自由度があっていいと思います。ボイラールームの動画ではよく “great music shitty crowd: boiler room” とか言われてるんだけど、でもこれはボイラールームだけの話じゃないし、客だけのせいってわけでもない。なんかもっとクラブや音楽やDJの有り様を分析する必要があると思うんですよね。

作業日誌:170706 - 嘘はいけないね

感想文の作法

 その体験自体はつまらない作品や文化でも、それについてあれこれ文章を書くのはおもしろいし、文章そのものもおもしろいっていう書き手や文章がものすごく増えてて、でその人たちは「いや、実物はつまんないですよ」とわざわざ言わないってことに自覚的でないという問題があるのかもしれない。

 たとえばクラブ音楽やクラブ文化についての文章はおもしろいんだけど、クラブイベントやクラブという場所そのものは行ってみると実際けっこうつまんない(UstreamYoutubeで放送されているのを見る方が楽しかったりする)ということがある。ものすごくおもしろいときもあるけど、それはごく一部/一瞬だったりとか。ごく一部というのは、それを褒める/すごいものだと紹介する文章の分量に比べてでもある。もちろん最初から最後まで楽しんでいる人もいるだろうし、クラブの現場や音楽が好きでたまらないという人もいるだろう。しかしここで私が問題にしたいのは「それについて書かれた文章」と「実物」の差異についてである。

 現代美術でも作品のコンセプトや文脈に対する姿勢や提示する概念、その文章はすごく説得力があるけれど、作品そのものや展示空間はつまらないというのもある。身近なところではマンガについておもしろおかしく書いてあるけどマンガ自体は読んでみるとつまらない、音楽のアルバムや音源についていろいろ書いてあるけど結局はただの音楽で早飽きてすぐ送りしてしまう。などいろいろある。

 ネットの文章を読んでいるとこのような体験があまりにも増えた気がするので、なんでだろうかと考えていた。答えはほぼわかってるんだけど、んじゃなぜその「答え」がはびこるようになったのか。まず答えを下記事から引用する。

凍雲篩雪 - 猫を償うに猫をもってせよ

Car qui de sentiment ne fait,
Son ouevre et son chant contrefait

本当の内心の情熱なしに、表わそうとする感動を自分で感じないで、ものを書いたり、作曲したりするのなら、何もしない方がましである。なぜなら、それはつねにうそだからだ

 ギョーム・ド・マショールというひとの言葉らしい。

 ようするに、それは嘘だからだ。嘘を読んでいるからつまらないのだ。とても単純な答えである。「レビューで嘘をつこうがつくまいが、つまらないマンガはつまらないだろう」という意見が飛んできそうだ。それはそのとおり。だがウソによってつまらなさを隠している文章と、つまらなさを前提としてそれを好きな人が中立的なバランス感覚と愛をもって書かれている文章は違う。嘘と情熱と、どちらかに触れてからその作品に触れることも別物だ。事前の情報が違うことによって楽しみ方も変わるのだから。B級映画について書かれている文章と流行りのマンガについて、流行りの音楽について書かれている文章は(すこし)違う(すべてとは言えないが)。それはつまらなさを前提としているが故に「楽しもうとすること」という視点が導入されているという違いなのかもしれない。が、しかし何が違うのかについてはまだよくわからない。

 SNSによってだれもが文章を書くということの弊害がこれだろうか。嘘が嘘と自覚されずに書かれてしまうこと。今はだれもが自らすすんで、タダで嘘を書く時代なのだということなのだろうか。自覚のある嘘としては、それでお金をもらっている人の商品レビューの文章がある。これは(媒体やモノに依るけれど)私にはつまらなくなった。それは愛の結晶である確率がほぼないからだ。つまらない。

 ところで少し違う角度のつまらなさについて書いておくと、SNS以降の表現の口述に「作品そのものでは完結しない」「受け手があれこれすることであれこれ」みたいなメタ視点を含んだものが普通になったし、まあそれはそれでべつにいいんだけど、シンプルに「それそのもので完結してないもの」はけっこうつまらないものだということがはっきりしてきたのかもしれない。

 何はともあれ嘘はよくないね。嘘になるということに自覚的でないと、これもよくない。

天才とはアインシュタインのことである?

 よく天才の例でアインシュタインが出てくるんだけど、たとえば他の惑星に知性のある生き物がいづれ相対性理論を導きだす(イーガンの小説…)だとか、もしくはもっと簡単に地球にアインシュタインがいなくても他の誰かがいづれ相対性理論を発見していたとしたら、たとえばアインシュタインのどんなところをさして天才だというのだろうか。

 でもノイマンアインシュタインが一番の天才だと言っていたように(アインシュタインノイマンが一番の天才だと言っていたらしい)やっぱその他様々な細部にわたる総合的な天才さ、他との違いのようなものがあるんだろうか。どうかな。

今日のBGM : Funkin Even - She's Acid

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 あまり情報は無い。eglo recordsの人と言うことしか知らない。この曲もegloのコンピCDで知った。地味だけどいい。

作業日誌:170705 - 共感するのはむずかしい

共感するのははむずかしい


引用も一応

一昨年死んだ独身の叔母さん
最後に会った時、会話に困って音楽の話して、何聴くのか聞かれて、「ゆら帝とか」って答えたら「へぇ」で会話が終わったんだけど、亡くなってから遺品整理で部屋掃除してたらアルバム全部あるし坂本慎太郎が出た雑誌の切り抜きとか残ってたんだけど、反応薄すぎない?

 この話、自分もこーいうところあるなと思いながら見知らぬ叔母さんの事を思った。どんな心情だったんだろうか?私の場合はなんか照れくさいというのがだいたいの理由なんだけど。

 私もふと知り合った人と好みの音楽が似ていてもあまりリアクションしない。まさに「へえ」と言って終わる感じ。他にこれと似てるケースなのは女の子が髪の毛を切ってたり化粧やスカーフが違ったりしてもそれを言えないとか。恥ずかしくて…。あるていど歳をとるとふざけたりキャラを作ったりして多少言えるようになったけど、これは今でも苦手ですね。あとむちゃくちゃ反社会的なのは誰かが結婚したときに「おめでとう…って言っていいのかな」とか離婚の際には「もしかしておめでとうのほうが適してるんじゃ」とか思ってしまうところですね。まあこれは照れというよりは類型として振る舞いたくない/扱いたくないという心理がある。

 たとえばある振る舞いが明らかな礼儀やルールになっていれば、それをするのは道に外れたことでないので技術的に淡々と出来る(心情はどうあれ)。しかし女性の髪の毛の変化に気づいたとしてもそれを指摘するのが100%正解というわけではない(ほぼそれに近いとしても)という場合、それをするのにやはり抵抗がある。相手は類型のうちの一人でなく、ちゃんと個性を持った一人なのだ…といういいわけをしつつ何も言わなかったりするし、ふざけられる空気感ならすこしふざけながら言う。真顔でこれが私の人間性でございますという顔では出来ないのだ。

 と同時に、自身の内面での「何が好きか」や「何に気づいたか」という領域は情報量の多さや「好き」の濃度など、他人と大きくギャップがある場合があって、相手の普通との差が著しくあるとけっこうキモがられたり、もしくは引かれたり、相手が傷ついたり、いろんな摩擦がある可能性があることもある。自分の「普通の感覚」が多くの他人のそれと違いがあると認識している人は、その部分を積極的には出さないという選択をしているんじゃないか、とも思う。

 わたしの「なんか恥ずかしい」という感覚は不思議に他人といろんなギャップがあって、大事な人が亡くなったとか、自分に大きな災難があったとか、感情の揺れ動きがあるとか、相手にシンパシーがあるとか、そーいうことをわざわざ表に出したくない。隠すつもりもないけど、伝える必要性もないと思ってたりするので、後になって「なんでそんな大事なことを言ってくれなかったの」と言われたりすることがある。自分としては隠し事はなく訊かれてないだけなのだけど、まあ普通の人は共有するんだろうなという感覚もあるので隠しているのかもしれない。でも恥ずかしい。

 あとたとえば他人の活動の熱量のわからなさもあって、たとえばそのひとの日常の活動力が20しかない人のうちの18をAというバンド好きにあてている人と、活動力が1000もある人がそのうちの100をAというバンド好きにあててる人がいると、前者から後者を見るとすごく好きのように見えるけど、後者は熱が入ってるというわけじゃないってこともある。極端な例では将棋の羽生さんはチェスでも日本一みたいな感じですね。いや、まあ羽生さんはチェスを片手間でテキトーにやっているわけではないと思いますが…あとピンボールに情熱を傾けているプレイヤーよりもピンボールの整備士の方が遥かにピンボールがうまいという描写がある小説もあった(主人公がなぐさめていた)。なので他人の「好き」とか「それに対する情熱」とかってよくわかんないですね。

 と考えると、その叔母さんの「へえ」にも、けっこういろんなものが含まれてたんじゃないかなとか私は勝手に思う。

 ところで私とこの叔母さんのように、お互いの内面というかその動機はわからないけれど行動はよく似ているということがある。逆に言うと行動が同じでも似た者かどうかはわからない。とするとシンパシーって心情的じゃなくて即物的なものなんじゃないかな〜とか雑な思いつきが今あった。でも共感って他人との間に根拠の橋が架かってないからむちゃくちゃ難しくないですか?わたしはいつも「たぶんわかる気がするけど、私の勘違いじゃないかしら」という気持ちが抜けないので、うまく共感の言動をとることが出来ない。勝手に個人的に感動したり悲しんだりは自由にすぐにしてるんだけど。

今日のBGM : Blank Banshee - Blank Banshee 0 [FULL ALBUM]

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 Vaporwaveという音楽の大きな主ジャンルがあって、この人はそのサブジャンルのひとと看做されているけれど、棚の少ないレコード屋ではNew WaveとかVaporwaveに並べられるでしょう。私はいわゆるVaporwaveというジャンルの音は好きじゃないのだけれど、Blank Bansheeはエレクトロニック感があって好きですね。どっちかと言うとFlying Lotus以降のベースミュージック界隈の方が音としては近い。Seihoくんとか。Vaporwaveにうまくまぎれて名を売った別人種って感じの音ですね。VW勢との違いははっきりとした音楽的実力がある/ちゃんとした曲を作ろうとしてるってところかなとか思います。ちゃんと検証してないけど。