紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:小学生と接する

 昨日の続き。

 とにかく私は今昼の仕事をしていて、昼の仕事では子どもたちと接している。だいたい小学生くらいの年代である。で、そういえば以前私はTwitterで(自称)小学生の人とやりとりをしていたことを思い出したんだけど、私は今仕事で接する彼らを「小学生だな」とか「小学生ってこんな感じなんだな」とか思いながら接してるんだけど、以前Twitterで接していた(というかやりとりしていた)人に対しては「小学生だな」とか「小学生ってこんな感じなんだな」とは思ったことがなかった。というか、今実際に仕事上接している小学生と当時小学生だったその人との接し方が全く違うということに気づいた。

 というのは相手が小学生だろうがいい年した大人であろうがディスプレイを介して乾いたテキストを投げ合って何かを伝え合うという行為において相手のパーソナリティみたいなものはとくに必要がない。たぶん性別や年齢を嘘ついててもいいし人間でなくてもいい。あるテキストに対してあるテキストが返ってきてそれによって自分の脳がキュルキュルと回ってさらに何かを考えるという楽しさがあれば相手の素性てのはどーでもいいわけだ。だから私は何かを言う時に「これは小学生にはわかるかな/わからないだろう」とか全く考えなかった。で、実際、それによって発せられる私の発言に、相手の人はまじめに応えてくれていたと思う。

 翻って今実際にナマの小学生たちと接していると、コイツらにtwitterで書いてるようなこと(過去に小学生を自称する相手にtwで言ってたこと)を伝える気には全くならない…というか、伝えることはありうるかもしれないけど、twitterで交わすような言葉遣いではしない。やっぱ別物だなと思ったわけで、で、これが、なんでだろうか?と不思議なわけです。これが本題。

 だって理屈で考えるとtwでやりとりしていた相手がマジで小学生だったなら(マジだと思う)、どこかの小学生とはtwでしてたようなやりとりができるはずでありそれが目の前の小学生でも何らの問題もないし確率的に低いというわけでもないはずである。でも実際の目の前の小学生を前にすると、こりゃ無理だろという気がする。とても不思議だ。

 不思議だけどもう寝る時間なのでまた明日…
f:id:saigoofy:20180206210203j:plain

作業日誌:「つぶやく」ということから始めて行けるとこまで

 「つぶやく」ということについて思いついたことを書きたい。ところで私の今の仕事は…と書いてから「仕事」のことをなんと呼ぶか迷ってしまった。候補は
1)仕事
2)バイト
3)昼の仕事
4)労働
などである。というのは「仕事」とは呼びたくないからであって、なぜかというとそれは「仕事」という単語を自分の一番大事な活動のためにとっておきたいからである。それは創作、ものつくりであって、それをしているのは主に夜、なのでそれ以外の生活のための仕事を指して「3)昼の仕事」という候補が出てくるのだがこれは「昼の」の分だけ長いしその仕事は朝から夕方にも及んだりする。「2)バイト」が言いやすくていいのだけれどこれは現代日本では雇用状態をも表す単語なので正確でないことがある。確か原語はドイツ語でアルバイトは単純に労働と訳されていたはずだ。これはしっくりくる。となると「4)労働」が適しているかというと「労働をしていた」というのはなんとなく座りが悪い。ので難しい。「3)昼の仕事」が暗に「夜の〜」を含んでいるのでそれでいいのだろうか。でも長いな。

 ともあれ今の昼の仕事は、子どもたちと接する仕事をしている。子どもというのはだいたい6歳くらいから12、3歳くらいまでなのでおよそ小学生たちを相手にしていると言える。

 とここまで書いたらもう寝る時間なので続きはまた明日…

f:id:saigoofy:20180205220804j:plain

作業日誌:171224 - 手紙

1.11.17

 こんにちは。お元気ですか?僕はまあまあです。今年の夏に手紙をもらって、その返事です。手紙にはいくつかの事について書かれていましたが(憶えているでしょうか?)個性というものはないということについて補足的に書きます。

 私は、私のような生物が若いころの父親や、先祖、まあその時代々々の私の一族のだれかとして存在したであろうこと、私がこの人生において自主的に(と思って)学んだり創作したものにも個性というものは無いのではないかと思っていること、について、けっこううれしく思っています。

 それは私という我の消滅とともに、私という存在の普遍性をも意味してるからで、まあ意識はここ(この肉体)にしかないと思っていても、私のような生物が過去にも、そしてもしかしたら未来にも居て、その時々の環境に合わせて生きていると考えると、何やら気楽になるからです。私が死ぬと私はもう二度とこの宇宙には存在し得ない、というのは一面では真実なのだろうと思いますが、この宇宙を俯瞰して眺めてみると、いつの時にも私のような奴がいる、というのはなかなか愉快だと私は思うのです。


 そして私はこの人生において、この世界に対して特になんの用事もないというのが気楽でいいと思っています。私になにか社会的に有用な価値や個性(かけがえのなさ)のようなものがあると自分で思っているのは、重苦しい。私のような人間は、過去にも未来にももちろん同時代にも吐いて捨てる程いるだろうという認識は、かえって私を自由にします。まあ無気力にもするともいえますが…ははは

 自分というものにとらわれるよりは、自分なんてそれほど気にしないという態度の方が私はいいと思います。根拠は経験という名の統計しかありませんが。もしかしたらこのような気楽さ、自由さを指向する考え方も何かにとらわれているが故の考えなのかもしれませんが、とりあえず僕は今のところこのように自分の(皆の)個性というものを捉えています。

 まあこの社会はほとんど個性やその人なりの特殊性のようなものを必要とせずに暮らしていけるようにきれいに整備されているし、それは多くの人にとって合理的で良いことなのだと思います。


 それをふまえて、私は何かを作る。絵を描いたり詩をこしらえたり音楽を鳴らしたりする。これは(社会的には)ほとんど意味のない事です。だれも価値の見出さないこと(私以外は、ですね)。だれも価値を見出さないようなことを私がするのは、それはいつだって私の自由だからです。

 ところで、この世界に生きている人々は皆生きているので、他の人々が「ただ生きている」ということに意味や価値を見出しません。それはだれもが普通にやっている、あたりまえのことだと思っているからです。そして、私が「ただ生きている」ということにもだれも意味や価値を見出さないが、私が「ただ生きている」ということは私にとってはかけがえのないことです。

 私が何かを作ったり学んだりすることに私が(私だけが)意味や価値を感じるのは、(そしてそのことを大事だと私だけが思うことは)私が「ただ生きている」ということを私が大事なことだと思うことと同じことであり、そしてまた、そこには個性や特別性といったものは大事なことじゃないんだという確信があります。


 我々が何かを大事に思ったりするのも、それは他人から見れば誤解やまちがいであってもいい。そこに絶対的な(社会的な)価値や意味なんてなくてもいい。ただ我々は自由に何かを思いこんだりする。それでいいんじゃないかと私は思います。

 今日はつかれたのでこのへんで。ではお元気で

今日のBGM

Cid Rim - LP
www.youtube.com