紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:更新ついでに日記でも

 最近思ったことを書き連ねてみる

 私はかなり無敵の人に近いという自負があるんだけど、あまり絶望してないんだよね。望みがあるとも思ってないけど。というのは絶望とか希望とかってたぶん自分の外側にある概念で(見つけたり出会ったりする)じつは自分のやることとはあまり関係がない。でも、たとえば死(ぬこと)とか自分の意識とか自分が自分を評価することっていうのは自分が個としてしなきゃいけない(他人に絶対に外注できない)ことで、そこを見つめるだけで一日が終わるというか。

 まあすでに用意されてるわたしの生活やまわりにいる人たち、環境に恵まれているってのはあるんだろうけど。でもまあ将来性はマジでない。あした死んでもしょうがない(でもイヤだな)と思ってるけど。

 ただ庭の草取りしてるときにも思うんだけど、除草剤や殺虫剤を撒くと、そこにいる生き物たちは一気にかなり死ぬわけですよね。でもその一度に一気に死ぬ生き物たちのなかにも、今日を楽しく過ごしてるヤツや今日も明日も不安だと感じてるヤツがいると想像できるわけです。話を大きくすると、地震津波や洪水や太陽の膨張があれば、そこにいる生き物たちの個性は関係なく一度にたくさん死ぬ。そーいうことを思うとあまり他人と細かいところを比べても意味ないよなとか思うんだよね。まあ私は他人のことさっぱりわからないから想像もしようがないと思ってるけど。

 日常において、自然や社会に対して自分が干渉したり変えられる範囲ってものすごく小さく、狭い。その小ささや狭さが実は良いことで、というのは自分が社会に対して、大きなものに対して、なにかする必要性がほとんどないってことだと思うんだよな。素敵な人にすでに恋人がいる、では私はその人に対してもう何もする必要がない。それって良いことだと思うというか。しかも最終的に、「宇宙は無から生まれて、将来的にはもう何も起こらない冷えた静寂に落ち着く」という世界観はわりと気に入っていて(この説が確定した事実ではないが)、いいなと思ってる。まあ私はぐうたらだからというのもあるけど。

 私がいくら高給取りであっても、ある国の紛争を止めたり、飢餓を防いだり、マラリアを根絶したりできない、クリスティアーノ・ロナルドが何百億も寄付しても人類の抱える問題はまだまだ死ぬほどある。すると、なんか、だいたいのことはたいした事ねえなって思うんだよな。なので結局は個人的なところでやっぱサッカーやりたいなとか、庭でとれたキュウリがうまいなとか、そーいうとこに意識が向いていく。そして勝手に一日が終わって、それでいいやとなる。

 自分ではどーにもなんない領域ってのは各人それぞれ抱えている。そして自分の問題はあくまでも自分だけの問題なんだよな。それでも生まれたばっかりで死んでしまう子どもとかはちょっとどうにかなんないのとは思うけど。

 まあ私は庭にいる蜘蛛とかトカゲとかにたいして、自分で薬を撒いときながら「おまえは前後を永遠の無に挟まれた今この一瞬、一度しか生きていないのに、すまん…出来ればどっか遠くまで行って生き延びてくれ」とか思うんだけど。いやーひどい。

 宮沢賢治のとある断章に、改心した竜が〝これからはもう悪いことをしない、すべてのものをなやまさない〟と誓うってシーンがあって、感動したんだけど、でも私は生きてる限りこの竜になるのは不可能だと思う。でも生きるしかないね。

「セックスの哲学」について

『セックスの哲学 – 江口某の不如意研究室』
http://yonosuke.net/eguchi/blog/philosophyofsex

 ここ数日、このページの関連記事をつらつらと眺めていた。非常におもしろいですね。私はアカデミックな場にいたという実感がないので世の学者さんたちがどのようにものを考え、行為し、なにを「仕事」としていくのかということにとても興味がある。

 小学校の図書館で読んだ本である西村肇の『冒険する頭』も、そのひとの考え方や研究がどのように進んでいくかが詳細に書かれていて、とても面白かった。人がものごとをどう捉えてどう考えてどう行動したかの記録ってちゃんと言語化されてるとすごくおもしろいんだよね。岩波現代文庫になってるファインマンのエッセイもとても面白い読み物なんだけど、基本的にはファインマンが何にぶつかってどう考えたかということが書かれている。それがおもしろいって意味です。

 検索してみると西村肇先生の『冒険する頭』は全文アップロードされていた。興味のある方は読んでみるといいです。古本でも安い。

『冒険する頭』
http://jimnishimura.jp/tech_soc/cha_brain/cha_brain.html

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 冒頭の江口聡先生の「セックスの哲学」関連記事に話は戻る。

 ここで行われている様々な議論や論文の紹介を見ていて何が面白かったのかというと、やはりそれは誰もが一度は考える具体的な疑問が含まれているというところではないでしょうか。

 たとえば「わたしとあのひとは好き同士ということになっているけれど、それは全く同じものをお互いに交換しているのだろうか?」とか「あのひとのいう「恋愛」とわたしの意味する「恋愛」にはどうも違いがあるようだ。あのひとの「恋愛」は私にはそう呼べるものとは思えない」とか「性欲ってそもそもなんなんだ?」とかね。そのようなある意味庶民的日常的な問題を、古今の哲学者や倫理学者など様々な人たちが大まじめに議論していたのだという面白さですね。

 まあ単純に自分が問題意識を持っていたり、それについて考えたことに対する議論は見ていて面白い。

 ただこれに関しては、議論が深まることによって社会的な利益はちっとはあるだろうけれど自分の生活に良い影響があるかというと少し微妙な気もする。現状、「恋愛」や「セックス」や「結婚」という名で呼ばれている競技は、統一のルールも定義もないなかでなんとなく行われていることであり、これに対して各人が各々明確な定義づけを行い、他者と出会い、話す中で互いの定義を交換し、同じ競争者として(伴走者でもいいけど)参加できるのかという手続きを踏むようにはならんだろう。

 上記記事の「モテ」に関する部分でふれられている通り、真摯/フェアさよりも強引さや根拠のない自信のようなものが強く作用するというのがずっと続く実情ではないだろうか。そこに何か議論と実情の乖離のようなものがある。

 でもまあたとえば酒を飲んで酔っぱらった相手とセックスすることについて、同意の形成は為されたといえるのか、責任の所在はどうなるのかといった議論は現実的だし重要だ。

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 ただ、なんとなく感じるのは恋愛や結婚やセックスといった「二人でブラックボックスを作り出す関係性」と言い換えてもいいのだけど、そこには互いに嘘を持ち込む力学のようなものがある気がする。もしくは、あとから言語化するなにか、物語化するなにか、相手(自分)とのルールを守るべきというフェアプレー精神を二の次にしてしまう何かというか…まあこれはよく言語化できないし、ただの思いつきなのでまた今度考えるかも知れないし考えないかもしれない。

 概論、第一印象としてはこんな感じです。

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今日のBGM:Actress x London Contemporary Orchestra - 'Audio Track 5'

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ActressがLondon Contemporary OrchestraをつかってAphex twinのDrukqsをやっている、という感じの曲。いいです。

作業日誌:他人との関係性について

今週の一曲:DAT Politics - Re-folk

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 バンド名が異常にカッコいいバンド、バンド名が異常にカッコよければ音楽はどうでもいいんだけどバンド名が異常にカッコいいバンドはだいたい曲もカッコいいという好例、ダット・ポリティクスの2002年のアルバム『Plugs Plus』(名盤)からの曲。テクノロジー的、というかハードウェア、ソフトウェア的には今(2018年)の方がいいんだろうけど(違うかもしれない)この頃の方が音がよく、曲もいい。人類や社会は線的に進化しているというのは大ウソだと言うことが2000年前後のエレクトロニカIDMを聴いているとわかる。

他人との関係性について

 他人はたくさんいるけれど、一緒にいたいと思えるような相手と出会う確率は5%くらい、相手もそう思う確率を掛けるとすべての出会いからじっさいに一緒にいるような相手との出会いは1%くらいという体感である。ということから出会いというものは奇跡に近いのだけれど、出会ったあとのお互いの関係性は明確に言語化されていないと意外に脆いもので、たとえば「あの人といったいどーいう関係なの?」という質問はまったく普通の質問のようにみなが使っているし、そこで50歳差の二人組が「いや、なんか…友達」などと答えることに対する第三者の違和感がありありとある。本人たちにもあるかもしれない。

 というのも恋人や家族、教師や友達という言語化された関係性というものは互いに一緒に居る理由のように便利に機能する側面がある反面、お互いの関係性がなにもない(明確でない)と会うことがない(会えない)ことから、人間関係はだいたい社会の常識内(思い込みや先入観)で線が引かれる。幼稚園児に教わる大学生はいないし友達関係とはだいたいが同世代間のものである、などなど。たとえば、小学校教師が小学生と一緒にいるのは「教師と生徒」という関係性が成立する状況において自然ではあるが、生徒が卒業するまたは教師が退職すると同時に二人でいることの不自然さが姿を現してしまう。元恩師、元生徒という関係性では例えば遊園地にいるのは「相応しくない」ように人は感じるだろうけれど(そこには歳の離れた友人という見方は存在しない)その二人が結婚したあとでは遊園地にいてもおかしくはない(と感じる)。逆に言えば、お互いにまったく関係はない(一緒にいる理由がない)けれど一緒にいるという状態はかなり意味不明で高度だと思うのだけれど、しかし猫や犬が相手だと一瞬で成立している。やはりそこには言語(認識)のあるなしが関係しているのだろうか?

 ところで自分はだれともあまり一緒に居られないのだという認識が寂しいという感覚の根源的なものだと思う。(ほとんどの)人と人の間の関係で重要なことは、気が合うとか話がおもしろいとか頭がいいとかセックスの相性がいいとかぜんぶウソで、ただ一緒にいる時間がどんだけあるかというだけぽい。我々にはそれしか積めないようなのだ。

 家にきた犬や猫は彼らが世界で一番私にぴったりなわけじゃなく、家にきたから彼らと一番時間をつんでいるだけであり、そしてその時間の積み重ねが他の犬猫と違って彼らと私との関係を特別なものにしている。そういう意味では相手や自分がどんな人間性なのかということよりも、関係性こそが大事だと言える。関係性によって人間関係が出来上がる。極言すると他人というものは「時間をつむ気の有る無し」の判定を下した相手であり、「ない」場合は結局全部すれ違いみたいなものであり、それが本質ぽい。たとえ「有る」場合でも、ほとんどすれ違いであることに変わりはないが…

 あるていどの大人になると他人にとっての「役割」をゲットしないと他人(社会)に利用されなくなる。「教師」や「恋人」や「運転手」や「アーティスト/ファン」というのは他人からの利用のされ方の定義でもある。そしていつかお互いに積んでいく期間が終わると(それまでの関係が終わると)会ってもとくにする事もないし、はなすこともなくなる。そのとき、もう会うことはないなと理解はするんだけど、なぜかそこに切ないなという感情があって、それはよくわからない。

 だれかとお別れする際にいつも不思議な気持ちになるのは、この関係性の終わりによってお互いの時間も終わるということによるものだと思っている。お互いは変わらなくとも関係性によって何かが変わってしまうのだ。