紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

アニメ:『魔法少女まどか☆マギカ』を見た

 5年ほど前に友達と遊んでいたら映画やアニメの話になり、私は何を薦めたのか忘れたが、アニメを見ない私に薦められたのは『魔法少女まどか☆マギカ』だった。「どんなことを言うのか楽しみなので、見たら感想聞かせてください」といった意味のことを言われたと記憶している。こぐまくんどうもありがとう。やっと見ました。

 以下物語構造の整理と感想です。

物語構造の整理

 キュウべえは少女の感情(希望/絶望)を収集するために魔法少女(魔女)を作る存在であり、ワルプルギスの夜は過去の魔女の集合体であるがゆえに魔法少女個人では倒すことができない。ワルプルギスの夜に殺されてしまうまどかのためにほむらは魔法少女となり、まどかを救うためにほむらは輪廻を繰り返すことになる。

 あるまどかは死ぬ直前、ほむらに「魔女にはなりたくない」と言うのだが [*1]、魔女/魔法少女という存在(インキュベーターのそそのかし)がないとこの地球は現在のように進化することはなかったという話をキュウべえに語られる [*2]。まどかたちがこの世にこのような形で存在するのはインキュベーターやこれまでの魔女/魔法少女の存在によってでもあるのだ。だからほむらの「まどかを魔法少女にはしない」という目的はこの世界構造の矛盾によって達成されることはない。構造を超えるような願いが必要だ。

 まどかはほむらが繰り返す輪廻による因果の業によって生み出された、この宇宙の構造ごと変えるほどの超魔力と願いによって、未来過去全ての瞬間に存在するような超越的存在となり、すべての魔法少女の魔女化を防ぐ(魔法少女化をではない)。原始時代から生まれ続けてきた魔女の集合体であるワルプルギスを、ほむらの輪廻による因果の業を背負ったまどかが魔力において上回るのはちょっとありえない転生回数だと思うけど、まあそこは置いときましょう。とにかく魔女は誕生しなくなりワルプルギスの夜もいなくなる(ワ夜はただの物語上の仕掛けなので大した問題ではないのだが)。魔女がいなくなり、少女の希望だけによって進む世界は同じ分量の絶望の凝縮にもよって、終わる。別の宇宙が始まる。

 別の宇宙にはまどかの存在はない。時間を超えることができるほむらだけが前宇宙の記憶を有していてまどかのことを覚えている。魔法少女は存在するが魔女という概念の存在しないこの宇宙には人間の呪いを凝縮した魔獣という存在がいる。このような負の感情は人がいる世界において無くなることはないということだろう。なぜかまどかのことを知っているかのようにふるまう人々の存在を示唆して物語は終わる。

感想

 キュウべえはincubator[保育器, 孵卵器]として感情をエネルギーに変えることができ、それによって宇宙のエントロピーの増大を防ごうとする。しかしキュウべえ自身は感情を持たない。ゆえに感情(希望/絶望)を収集するために少女と契約し、その希望と絶望のエネルギーを引き出そうとする。キュウべえは個よりもこの宇宙のことを考える存在であり、現代の人間の知性の上位概念のようなものである。この装置はSFや、昨今ではAI文脈でもよく見受けられる。寄生獣で「みんなのことを考えねば」と発しただれかと同じものだともいえる。

一人の人間が生み出す感情エネルギーは、その個体が誕生し、成長するまでに要したエネルギーを凌駕する [*3]

というキュウべえの言葉は意味深長だ。私も人々の楽しい時や悲しい時のエネルギー消費量は同じなのだろうかと不思議に思ったことがある。どこかに論文がないかと探したがよく覚えていない。もし同じだとすると、幸せに感じたり、誰かを想ったり、愛したりするのはとてもとてもエネルギー効率のいいことだと言える。これは、何が起こってもあなたの頭の中だけは本当に自由だということである。美しいことを考え、なにかを愛するのは、いつでもどこでもどんな状況ででもタダでできることなのだ。

 自分が輪廻を繰り返していたら友達が輪廻の輪から抜けてお釈迦様になってしまうという構造はちょっとおもしろい。ほむらが関西人なら「お前が悟るんかい」というツッコミを入れるだろう。仏陀は悟りによって全てになってしまったので、誰かがなにかを仏陀だと知ることはない。人々や万物の中にまどかがいる。もしくはまどかとはこの宇宙そのものなのだ。

 ほむらはかつてのまどかのことを誰も認識できない宇宙について、もしくはそのまどかのありよう(無さ?)について悲しむ。自分だけはまどかのことを覚えておこうとする。これはとてもふつうのことだ。私たちもいづれ全てを忘れてしまう。誰かが死ぬということは、その人についての記憶がもう増えないということだ。その人を思い出すしかできなくなるということだ。そしてその人を思い出すことのできる人もそのうち誰もいなくなって、我々は全てをわすれてしまう。宇宙は冷えて情報はピクリとも動かない。これを悲しむのはとてもふつうだと思う。もういなくなってしまった誰かのことを思い出すのは魔法なのだ。

今週の一曲:千年メダル - THE HIGH LOWS

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脚注

レンタルなんもしない人は個人の物語を目撃する

 レンタルなんもしない人とかが出てくるの多様性と言えると思うんだけど(そういえばニューヨークかLAかサンフランシスコかどっかで人の散歩につきあう人という需要があるというニュースを見たな)と同時に、多様性と言ってもそれは特定の誰かもしくは一定量の他人の欲望の具現と言えるかな。レンタルなんもしない人への依頼の全てを知らないのだけど、傾向として、何もしない人というものを必要とするのはきわめて個人的な欲望の表出の場であって、それを他人と共有(社会化)するのはむずかしいものになる。簡単なものなら友達や恋人といけばいいのだ。ここに物語は「誰かと」共有されるものという原則を見る。

 誰にも頼むことができない問題というのはうまく言語化社会化できなかったりする。言語って他人との間に架かる橋なんで、特殊だと思っていることを社会化したくない人は言語化できないんだよね。だけど行為はできる。一昔前ならドラマや映画の探偵がそのような依頼を受けていたんだけど、現代のレンタルなんもしない人はだれでもがだれでもにメッセージや体験やフィクションや思想を届けることができるSNSの内実の空虚感と凄く合致している。インスタ映えやバズ狙いや個人の欲求の物語化は誰もが個を主張する社会の産物なんだけど、レンタルなんもしない人は個を消した役割のひとで、個人の物語化社会において個を消した人が必要とされてるのはまあ当然というか、かなり面白いと思う。必然ともいえる。

 乱暴にいうと自分というものを社会化したいんだけど、この社会ではイヤなんだよね。でSNSも体感としてはガラガラの廃墟でクソなんだ。阿木譲さんの言ってた “インプレッションが5000ほどあっても、ありがとうのひとことも返ってこないTwitterって、いったいなんなんだ?” という言葉と「何もしない人が一人ついててくれる」レンタルなんもしない人の需要ってきれいに裏表になってる気がしている。

今週の一曲:Marlon Jacksons - Steal Your Bike (Si Begg Remix)

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 サイベグ好きなんだけどあまり似たような人(フォロワー)は現れない。とおもっていたらかなり似ている意外な人が出現したので今度それを紹介するための前フリで今日はサイベグ。

脚注

 ない。散歩に行く人のURLがわかったら足す

雑記:「承認」てなんなんだ

今週の一曲:Proc Fiskal - Kontinuance

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 スコットランドエジンバラ出身のProc Fiskalは21歳!2018年のリリースとは思えないくらいの00年代初期のエレクトロニカ・ヴァイブスに溢れた曲。Bleep 100で知った。いいです。

「承認」てなんなんだ

ばかの一つ覚えのように、Twitterで毎回先端音楽情報を紹介しているのがバカバカしくなった。インプレッションが5000ほどあっても、ありがとうのひとことも返ってこないTwitterって、いったいなんなんだ? S NSの背後にいるサイレント・マイノリティ、こっそり情報だけ盗みに?
9:29 PM - 16 Sep 2017
https://twitter.com/AgiYuzuru/status/909031458773254144

 阿木譲さんが亡くなってからブログ〔*1〕とTwitter*2〕をちょっとずつ、で無料で読める部分はぜんぶ読んだと思うんだけど、上記の言葉はかなり印象に残っていてその後もいろいろ考えている。阿木譲さんが亡くなったあとに何本か追悼の記事や意を表明するSNS上の書き込み、思い出などを語るブログなどを見たし、本人は生前雑誌や本を作ったりコミュニティやイベントの土台となる様な場所を作ったりしていたということで、無名であったというわけではないだろうと思うのだけれど、本人の意識や「インプレッションが5000ほどあっても、ありがとうのひとことも返ってこないTwitterって、いったいなんなんだ?」という感覚はどのようなものなのだろうか。これは意外と有名無名問わず多くの人人の感覚にも合致するものなのではないだろうか。

 おそらく根底にあるのは誰もが無料でアクセスできる情報領域(インターネット上)に有名/無名として情報を持ち寄って他人から無言の尊敬を得てもあまり割りに合わないという感覚だと思う。しかし一方で、ネット上に情報を持ち込んで得するひとややり方や情報そのものはあることはある。けど、それは限定されてたり策を弄したり文体を変えたりしないといけないとか、ほかにもたくさんの意味があると思う。基本ほら吹きが得なんだな〜というのが目に入ると、情報を持ち込んでる意識があるとやってらんねとなるとか、見目麗しい人の自撮りにワーキャーとアクセスがついたりだとか、それとまともに同じ地平に自分の情報が乗ることだとか。そこにはただ情報の提供者と受給者の間のやりとりの有る無しだけでなくて、なにかもっといろいろな要素がある気がするんだけど全く言葉にならない。

 10年以上前からTwitterはてなで見かけた人たちがいづれ本を出したりライターになったりイベントしたりしているのを見ると、やはりそっちへいくのか…それしか道はないのか…とか思ったりしてたんだけど、でもまあ時代というか多くの人々の意識や便利さはそっちへ流れているのかなという気はする。情報を発信するのであれば(情報にもよるけど)無名より実名つーかその情報の持ち主としてタグづけされた方が得、なんでひとまず多くにリーチするような情報で名を売ってほかのツイートでフィルタリング、結果残ったファンを囲うという方が今や効果的だということなのかもしれない。阿木さんは実名で有名だったのでそれだけが問題なのではないだろうけれど。

 ネット発の書籍や記事の書き手の選定も、ある特殊な技能や情報の持ち主としてピックアップされる、というよりは、まあ最初はそうかもしれないけどとりあえず小有名になった人にいろいろやらせよう(人気あるみたいだし)という力学でいまだになにかがクリエイトされている(領域が目につく)気がする。インターネットも時間が経てば経つほど情報の価値や重みづけは利用者各自バラバラにならず、中央集権になりやすいってことかもしれない。無名の人と有名な人が同じことを言ってたら当然有名な人の方がインターネット上の価値(アクセス数)を稼ぐ。情報はフラットになりえないのかもしれない。誰か一人でもいいからこの情報が届くかもしれないという希望が、それは意外にあっさり叶えられたんだけど、無名で無言の幽霊の様な一人に届いてもあまり意味がなかったみたいなことなのかな。わからん。

 とここまで考えて、いままで承認欲求ってことばわりとバカにしてたんだけど(雑に使われてるから)、「承認」の意味によってはかなり使い路のある言葉かもしれない。たぶん承認ってのは人によって非常にバラエティのある、かなり違った内実を持つ概念だからこそ雑に使われているのを見てバカにしていたところはあるんだけど、承認って実際個人にとってどのようなものなんだろうかと考えるのは大事だと思う。たぶん、ある意味で有名であり、ある人々からは尊敬も注目もされていた阿木譲さんは、Twitterやインターネット上での有り様に「承認」を感じていなかったんだと思う。と考えたときにその「承認」とはいったいなんなのか?

 うーん。社会つーか人と人って何を交換して生きてるんだろうか?

注釈

*1:阿木 譲 a perfect day | you're going to reap just what you sow https://agiyuzuru.wordpress.com/

*2:https://twitter.com/AgiYuzuru