紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

家族は自分の違ったバージョン

 何年か生きてきていろいろな人間を見てきた。多種多様な人間関係のなかで様々な他人を観察してきた。そうした体験を経てあらためて家族(私は独身なので自前の家族はいない。両親のこしらえた家族のメンバーのことです)とそれ以外の人間を比べてみると、家族というものはやはりかなり似ている生き物だといえる。
 家族といえども他人なので、合う合わない部分があったり考え方が違ったりうまく関係を築けなかったりする*1。しかしそういう部分を加味しても、冷静に相違点と共通点を腑分けしてみれば、家族以外の人間を見れば見るほど客観的には家族ほど自分に近い生き物はいないだろうとしみじみと思う。

 ところである日亡くなったじいちゃんの家の掃除をしていたら子どものころの父親の写真が出てきた。その少年は子どものころの私の姿と瓜二つだった。同じように母親の学生時代の写真を見ると、姉ちゃんにそっくりである。父親にも母親にも兄弟姉妹やさらに父親、母親がいて、さらにその父母にも兄弟姉妹や父母がいる。その連綿と続く家族史のなかに、何度も何度も自分に似た見た目の生き物が生まれ育ち、遊び、死んでいったと思われる。もしかしたらその中には性格、性質も似た者がいたかもしれず、自分がその時代に生きていたら同じような行動をとったであろう人や、そうでない人もいただろう。

 そう考えると、自分はただ、いまのこの時代を生きる当番であるだけで、500年前に生まれていれば500年前の先祖のように育ち、考え、行動したと思われる。自分と先祖の違いは、ただの境遇や時代背景によって生じた違いくらいで、生き物としての個体差のようなものはあまりないのではないだろうか。そう考えると家族というものは永遠に生きることができない個体としての、時代ごとに現れる違ったバージョンに過ぎず、先祖や子孫(や親や子ども)は自分がその時に生まれていた場合のバージョン、自分のもうひとつの別の仮説みたいな存在なのではないだろうか。
 とすれば、自分に似た、自分のような生き物は過去にもこれからも沢山いた(いる)わけで、別に自分が死んでしまっても別にいい…というかたいしたことではないように思います。

 500年近くたっても織田信成くんが織田信長に似ている(気がする。僕だけですか?)というのは、その間どれだけの他人の血が混ざったかを考えるとかなり凄いことだと思う…ことから、長い視点でみると、自分一人の影響力というか個性、オリジナリティ、個体としての意義や重要さ、存在の重みみたいなものは、何を為したとしてもどんな人間であっても(もの凄くお金を稼いだり、歴史に残る偉業を達成したり、頭が良かったり、みんなに嫌われて野垂れ死んだりしても)ほとんどなくて、自分は結局この一族の類型のなかの一つの事例でしかなく、その一族も世界中の人類のうちの一つの事例、人類もほ乳類…というか生き物ぜんぶの一つの事例、と考えていくと、まあみんなすべて似たようなもので、似たように個性というものや差はなくて(あるけど)みんな似たように尊い存在なのではないだろうか…などと話が大きくなったところで終わります。

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*1:うまく関係を築けない相手というのは「他人」の最たるもの、自分といちばん違うものに思えるんだけど、その相手が家族の場合は両者の違いは実際には些細なもので、じつは共通点の方が圧倒的に多いということがほとんどなのではないか…とか思うんだけど、もちろんそうでないこともあるでしょう。