紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

第7号:人の感じる時間というもの - 2016.1.31

 実際のところ時間というもの、時間が過ぎていくことはうまく把握できないものだけど、年月のように時間を「区切って数える」ことで人間はだいたいの目安を得ている。そして人間が生きて死ぬまでのスケールの膨大な事例、統計から「産まれて1年経った人はだいたいこのような状態である」「30年生きた人間はだいたいこのような状態である」と把握している…つもりになっている。孔子

子曰、
吾十有五而志于学、
三十而立、
四十而不惑
五十而知天命、
六十而耳順
七十而従心所欲、不踰矩。
 
子曰く、
吾れ十有五にして学に志ざす。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳従う。
七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。

という言も、だいたいの人間の寿命はこれくらいであり、だいたいの人間はx年生きたらこのような状態になっている、という共通認識のうえで孔子さんも仰っているはずだということです。

 なので、ベンジャミン・バトンでないかぎり大雑把には時間というか自分がどう変わっていくかを(過去の人類の事例から)捉えられるはずなのだけれど(ex. 20歳を超えたあたりから身体が古くなる。徐々に機能不全に陥ってくる)細かな部分ではかなりの違いがある。これは後述する。しかし「一年を数える」ことは皆同じようにできることだと誤解しているので(今日が○月○日であり、数日して□月□日になった、と誰もが認識出来ていると思っている)皆同じ分量の時間を過ごし、年をとっていると思ってしまう。しかしそれは誤解である…というか、同じ分量であると証明することはできないので、ひとまず約束事のようにそう思い込んでいる。

 同じ人物が一年間ずっと刑務所でいた場合の一年と、大学を出て初めての職場で過ごした一年と、宇宙空間で過ごした一年とでは全く違う一年となるし、別の人物が前述の人物と同じ場所で過ごした一年と比べても、各自全く違う一年となる。何が違うのかはすべてが違うので言えない。何が同じなのかはそれぞれが「同じ一年」という期間だと信じられているだけである。アインシュタイン相対性理論の簡易な説明を求められた際の有名なたとえ、ストーブのうえに手を置いた一分と好きな相手と過ごす一時間の違いや、10歳のときに過ごす一年(人生の1/10)と100才のときに過ごす一年(人生の1/100)の体感する長さの違いもあります。そのような「同じ時」というもののあり得なさ、についてギリシアのヘラクレイトスが端的に表現しています。

いかなる人間も、同じ河に二度入ることはできない

 相対性理論は宇宙にながれる客観的絶対的な時間というものの存在を否定したが、われわれ人間が社会の中で捉えている時間というものは、客観的な時間(一秒、一分、一時間、一日、一月、一年…)が粛々と流れている横に、個人的な時間(それは早くなったり遅くなったり情報に溢れていたり空虚だったりする)が並走して流れている。という認識が実感に近いのではないだろうか。

 誰しもが違う一年という時間をそれぞれ違った情報の得失や変化を繰り返しながら過ごしている。しかし誰一人として同じ地点に留まることは不可能なので(全く変化せず、時間の影響を受けない存在はない)時間や変化に対しての正確な観測者というものは存在しない。我々は「この一年」を振り返るときに、それぞれ全く違う実感、情報を含む「一年」を持ち寄り、まるでそれを同じ尺度のものとして捉えている。しかしそれは正確でない。我々が日常的に呼ぶ一年というものはあくまでも暫定的な共通認識、約束ごとに過ぎない。その暫定的な一年を積み重ねた年齢というものも、やはり暫定的な認識に過ぎない。年齢や時期というものは、目安として機能する場合はあるけれど、実体はない。ということが言いたいわけです*1

 ここまでの話で言いたいことは、時間というものはあくまでも他人との間の約束ごと、目安であるということ。

 そしてもう一つ重要な話がある。それは人間はいつ死ぬのかわからない(=自分の人生に流れる時間の総体がわからない)ということである。これは例えるなら残高がいくらあるのかわからない預金口座を運営しているようなものである。この指摘によって何が言いたいのかというと(もうつかれてきた…)あなたは明日死ぬかもしれない(時間が終わる)のに、社会や統計上の目安を参考にするのは危険で、取り返しのつかないことになる可能性があるということです。
 病気であれ事故であれ通り魔に遭うであれ、突然の死に対し薄れゆく意識の中で初めて自分の人生の時間の分母(総体)を知る。そのときに初めて、自分の一年とこれからもっともっと生きてゆく人の一年とでは同じ長さではなかったと気づくのでは遅い…というか手遅れです。

 冒頭に引用した孔子さんのことばも、社会の提示する人生設計や人生の目安というものも、おそらくその時代の平均寿命を念頭において設定される。もちろん友人や両親、すべての人間もそれぞれが認識する「だいたいの寿命」を念頭においてものごとを考え、時にあなたにアドバイスする。しかし寿命やそもそも時間といったもの、あなたの一年の流れ方、時間の過ごし方というのはあなた独自のものであり、それは誰にもわからないものなのである。

 もちろん一流のスポーツ選手になりたいならば幼年期からの訓練が(ほとんどの場合には)必要だろうし、安定した妊娠出産に適した時期もある。そういった自分にも有効に機能する時間についての統計や目安もあるはずだ。なので自分の個人的な時間の認識と同時に、多くの他人の人生に流れる時間の認識もあくまでも参考として捉えてうまく利用するべきだと思います。
 それさえふまえていれば世間や他人の年齢観や時間観なんて必要以上に気にする必要はありません。あなたの一年やあなたのこれまでの時間、そしてこれからの時間はだれにも判断できないものなのだから、自分でしっかり考えて常識や偏見や時間にとらわれず納得して楽しんで生きていくべきだと思います。
 「永遠に生きるように学び、明日死ぬかのように生きる」というのはマハトマ・ガンジーの言葉だとされていますが(本当?)誰が言ったとしてもべつにいいですよね。みなさん楽しく自分の時間を使いましょう。

おまけ


 年をとるという言葉はとても抽象的に捉えられるけど、具体的には古くなっていくこと、もう新しくないと認識するのが具体的でいいのではないでしょうか…と同窓生たちと久しぶりに話して思いました。

今週の一曲


🌹 demo taped / not enough

今週の一曲はアトランタの若き音楽プロデューサー(17才!) demo taped の 'not enough' という曲です。
いい曲ですよね。

*1:しかしだいたいの目安としての時間の捉え方が機能する場合も沢山あります。たとえば日本国内だとだいたいの人は18才くらいまで学校に通っているでしょう。なのでその18年間をある程度の同じような体験、同じような期間として捉えることも可能です。日本の学生間の一年に生じる違いは、シリアの孤児が少年兵として過ごす1年との違い、ほど大きくないでしょう