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紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

第8号:最近に気づいたことなど - 2016.5.5

おリス通信

最近に気づいたことを書く前に

 最近に気づいたことと書いたけれど、実際には以前から暫定的な答えや道のりがあって、最近とりあえずの段階、階段で言う踊り場のようなところに新たに着いた考え、まあ最新にアップデートされたことという意味です。以前と考えが変わったという場合だけでなく以前の考えよりもより明確に輪郭がとれた(輪郭がとれた、線がとれたというのはデッサン用語で「写し取る」のとるです。落ちるという意味ではない)という場合があります。たぶんそっちの方が多い。

気づいたことその一 年をとるとわかってくること

 年をとるとのうみそがへたってきて頭の回転が悪くなる…と言われている。これは自覚するかぎり明確にそうなんだけど、逆に経験やすでに答えを出した考えなどは蓄積されているので「答えを導くための道具」は若い頃よりも頭の中に備わっている。なので判断のスピードはまだ加速している体感。そのうち答えを導くための道具を組み合わせたりそれを思い出したりするのに時間がかかってくるんだろうけどね。
 とここで一つ例を出すと、例えば恋人/好きになる人/パートナー、とどう言い換えてもいいんだけど、そーいう相手を選ぶスピードは格段に速くなったし、年をとるごとに皆速くならなければ嘘だろうと思っている。新たに出会った目の前の相手が自分の相手に相応しいかどうかを判断する速さですね。なぜかというと年をとるごとに自分というものがより明確にわかってきて、自分に合うもの合わないもの相応しいものとそうでないものもわかってくるわけです。そこに理性が加われば、たとえば「この人はとても魅力的だけれども自分の生活スタイルには合わないだろうな」などといった判断は早くなるし冷静に行える。
 自分というものが明確に見えてくるということはある意味では選択肢を狭めることなんだけど、それと同時に必要なもの、そうでないものが見えてくる。これは(時間がどんどんなくなっていくことを考えれば)とても善いことだと思います。思いました。
 逆に自分がどーいうヤツなのかいつまでたってもわからない場合はいつまでたっても自分の判断の基準がなくて、スゴくいい身体や顔の人や耳触りのいい情報や大多数の周りの意見などに騙されてしまう可能性がある。気をつけましょう。

気づいたことその二 古典を読むのはすばらしい

 これはかなり重要なことに気づいたと自分で感じてすごく感動したんだけど、古典作品に触れる、古典の名著と呼ばれるものを時系列(じゃなくてもいいけど)に追って読んでいくというのは、平たく言うと自分も(実際の時間を経ずにワープしながら)歴史に参加するってことで、まあそれは読書だとすると実際には家とか公園とか電車とかで一人で読書するんだけど、でもそれは本当に一人ではない。となりに作者が、人類を進歩させてきた偉人達がぎゅっと並走してる感じなんですね。
 自分も歴史に参加する、その末席に座りつつ先人たちと並走するっていう感覚はけっこう素晴らしいことで、例えばいきなりデカルトウィトゲンシュタインやカントなんかを点で読んでいくと「なんでこの人たちはこんなことをわざわざ書いているのか?」とか思うんだけど、書かれた年代や当時の状況や交遊関係やそれまでに書かれた(著者の読んだ)書物やその影響など連関がわかってくると、それまでの人類の積み重ねやその当時の問題点があって、それに対した、各時代の人類の先端にいた人たち、をつぎつぎ訪問していくように感じることができる。
 そこには、ほとんど、ただただ個人的な問題をただただ個人的な解決方法で示したような書物はなくて(そんなものはやっぱり人類にとって/私にとっても意味がないらしい…けど分野によっては例外はある。美術とかね)およそ哲学と呼ばれる分野の書物に関してはもの凄く頭のいい人たちがもの凄く時間をかけて積み上げてきたものたちが本になっている。こんなに純粋で質の高い(密度の高い)情報は、パッと産み出せるものでないし日常生活でもあまり出くわさない。
 なにより素晴らしいのは、何度も言うけどその時代時代の偉人たちと次々と個人的に並走出来るという感覚で「これを書いている作者はひとりこっそりと机に向かってこれを書いていたんだな。まさに、今、これを読んでいる私のための個人的な手紙のように」感じることができる。思索や執筆は孤独でないとできないけれども、時代や場所を経た純度の高い孤独同士が結びつくシステムになっている。素晴らしいですね。

美術作品とそれに触れる環境のつまらなさみたいなことについて

 たとえば、作品だけをとりあげて「文脈や作者の意図、美術史を無視してもとにかく異常に美しい、存在そのものがいいモノ」みたいな作品が成立するとする。これは実際に成立している。そんな作品は有名で大きな美術館に300くらい展示されてある展覧会を見れば一つくらいは見つかります。しかしこんな作品に日常的にふと出会うことはほとんど稀です。その辺で何気なく入ったギャラリーやちょっとした作品展、もしくは雑誌やミニコミやZINE、TwitterinstagramなどのSNS、それらの(日常的な)小媒体で知る作品でそのような問答無用で成立するような異常に素晴らしい美術作品みたいなモノには(ほぼ)出会わない。ので、日常的には「そこそこいいね」みたいな作品を多くの人が作って、多くの人が(多くの機会に)鑑賞していることになります。
 「そこそこいいね」みたいなものの価値はその作者(のみといっていいと思います。美術史は日本では硬直している。一般的には存在しないと看做してもいい)の文脈に担保される。というのは作品そのものがそこそこのものだから、作者がどんな人で、どんな作品をどんなクオリティで作っていて、そしてこの作品はどのように位置づけされるのかという周辺情報で飾られることになる。もの凄い作品は誰が作ったものでも別にいいけど。
 しかし美術作品や美術作家を紹介したり(する程理解している人)買ったりする人の数、美術作家の存在や紹介する媒体が、たとえばマンガや映画を取り巻く状況と比べて異常に小さい(貧しいと言ってもいい)ので、我々一般の人々には作者やシーンの文脈みたいなものは(ほぼ)見えず、唐突に誰かの作った断片のような作品だけが目に入るような構造になっている。その断片だけでももの凄い作品が日々生まれていて日々触れられるならいいんだけど、前述したようにそんなものはない。のでつまらない。素性の知らない人の唐突で不完全な作品のようなモノにしか出会えない。というかそういう形で出会うのが一番自然な形になっている。作品や作家に対するアクセスの悪さみたいなものかもしれない。
 たとえば対比してマンガ、漫画家という存在の有り様は、出版社や定期的に発行販売される雑誌などがあり、単行本という(ある程度作者の文脈の理解出来る)作品フォーマットがあってそれらを取り巻く市場が拓かれている。ので無名の美術家の美術作品を鑑賞するより無名の(でも単行本の出版されている)漫画家のマンガを読む方が楽しむ情報があると看做せる。情報のないものにとって楽しむことが容易だという意味です。
 スゴく雑にまとめると、美術作品の強度がないと作者や作品そのものの文脈がわからないと詰まらないし、それらを知れる、楽しめる下地もないなとか思う。この問題点は大昔から言われていることだろうけど、とりあえず私の言葉で書くとこうなります。
 逆に言えばマンガや芸能ワイドショーが異常に進歩している(楽しむための土壌が仕上がっている、その瞬間から楽しめる)ととることもできるけど。知らない人にとってデミアン・ハーストがあのドクロをつくったいきさつやドクロ作品そのものよりも、レスターがプレミアリーグで優勝したいきさつや試合の方が、面白い(楽しみやすい)という感じ。
 ところでこないだ偶然行ったヒカリエで唐突にデミアン・ハーストの版画の展覧会を見たんだけど、まあ「まあまあ」の作品が20点くらい唐突に壁にかけてあって、まあまあいいねみたいなもの(体験)なんだよね。「これが現代美術の体験なの?」と火星人に訊かれたら、まあつまんないよなとか答えると思う。

ここで一曲


Deerhunter - Take Care

Deerhunterのこの曲は違うけど、最近は(Flying Lotus以降は)一曲だけ紹介してもあまり意味がないみたいな作品作りをするプロデューサーが増えて、アルバム自体はすごくいいけど一曲選ぶのはむずかしい、みたいなことが多いですね。最近じゃないか。

終わりです

 それでは終わりです。えーと、ここに書いたことはだいたいTwitterのコピーなので興味を持った人はfollowしてください。