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紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

第11号:しつけというものについて

しつけというものについて


 ふとしつけという言葉について考えた。家には猫がいるが彼に対して「しつけ」という言葉を使ったことがない。しつけという言葉はだいたいペットや子どもなどに向けられる気がする。子供やペットに対してのなんらかの行いを「しつけか否か?」と問うている文脈を見かけることが度々あって、そもそもしつけってなんだ?と思った。とりあえず辞書を引きましょう。

 大辞林によると、しつけとは

し つけ【仕付け・躾】
(1)(「躾」はからだを美しく飾る意の国字)子供などに礼儀作法を教えて身につけさせること。また、身についた礼儀作法

とある。ん?礼儀作法ってなんだ?ということでそれも調べたけど「礼儀作法」では載っていない。バラして調べてみると

れい ぎ【礼儀】
(1)社会の秩序を保ち、他人との交際を全うするために、人としてふみ行うべき作法。礼節。

作法は

さ ほう【作法】
(1)礼にかなった立ち居振る舞いのしかた。
(2)物事を行う方法。やり方。
(3)しきたり。慣習。

 と書かれている。辞書による定義を見る限りでは、しつけというものは対社会、他者を想定して行われる教育のようなニュアンスがある。子どもに礼儀作法をおしえるのは、社会のことをよく知らない子どもが、その無知故に社会での生活に支障を来さないように、もしくは社会(他者)との交流を円滑に行えるようにするために教育すること、と把握しておいて間違いは無いように思える。ここまではいい。

 ふと不思議に思ったのは、では「しつけというものは多数の他者の存在を想定し、その他数の他者との間に通用するものでないと成立しないことなのではないか」ということである。そうでないものは単純に力の強いものが強いる強制ではないのか?

 たとえば、家に猫がいるとする。どこの家でもいいしどんな猫でもいい。そんな猫を想定してくださいね。で、その猫が家の中の決められた場所で排泄するようにさせたり、壁に爪をたてないように叱ったりしてそれをしないようにする。そのような人間の行動を「しつけ」と呼ぶ。呼ぶとしましょう。呼ばない人もいるかもしれないけど、多くの人はそれをしつけと呼んでいると私は思う。しかしこの場合のしつけは、私の想定する社会(私以外の人間)にこの猫が面した際に、無知故にその社会での生活に支障を来さないようにしている…わけではない。猫にとって社会はその家の中であり、その点においては社会と呼ばれるものはなく、家主と猫との個人的なルール設定、というか「私の気に入らないことをするな」という押しつけになっていると思うんですね。

1)その猫が一生家から出ずに生活した場合
猫にとってその家が社会すべてとなる。その社会のルール(トイレや爪研ぎをする場所)を覚えることは(飼い主の機嫌を損ねないことは)有利に働くかもしれないが、それは飼い主の都合であって、飼い主に都合のいいルールに従わされているだけに過ぎない。猫にも猫の都合のいいルールはある筈だ。

2)猫がいづれ家を出てより大きな社会に住んだ場合
は家の中でのルールなんてそもそも必要がない。

3)猫が他の家(飼い主のもと)に移り住んだ場合
を想定して、1)を行うことはしつけと言えるのか…うーん、ちょっと難しい。ただそのためには「どんな家に行ってもどんな飼い主でも通用するような一般的な教育の成果」のようなものがないとしつけとして成立しないわけで、それは難しいのではないかと思う。ほとんどの人間はペットに対して一対一の対等な立場の生き物として接することはないのではないか。どうあっても非対称な関係性になってしまうというのもあるし、個人のプライベートな空間である家とは社会となりにくいものだと思う。

 ということで、かんたんに言うとペットに対して「しつけ」という言葉を使ったとしても、そりゃ単なる人間の都合のいいようにコントロールしてるだけでしょと言えるケースがかなり混ざっているのではないか。ということが一つ。

 で、人に言い換えると、たとえば誰かを拉致して監禁する。部屋から一歩も出さない。その相手にルールを強いる。ここでトイレしろ、大きい声は出すな、外へは行くな、他にも他にも。監禁された人にとってその家が社会となる*1として、その社会に属する他者=自分を監禁している人、に気に入られることがその社会で円滑に過ごすことになったとして(なりそうだ)その人の気に入るように従うということが「しつけ」と呼べるのか?ということですね。これは「しつけ」とは呼べないと思う。

 要するに「自分の都合のいいように相手に振る舞わせること」はしつけとは呼べない。ということですね。あたりまえだけど。自分だけでなく、もっと多くの他人や環境に通用するような礼儀作法の教育というラインは最低超えている必要はある。

 次に考えるのはその強制の是非で、たとえば、誰彼かまわず噛み付く野良犬がいたとして、その犬に必要でないときは噛みつかないように教えることはたぶんこの社会で生きていくのに(殺処分されずに長生きするのに)有利に働くのではないか、この犬にとって有利になるのではないか、という予想ができる。もしそれが外れようとも。その考え自体は論理的で客観的に判断も出来る。とすると、その犬に噛み付かないことを教えるのはしつけになる…か?
 人の極端な例だと、その人が敬語というものを知らずにいると、社会(大勢の他者)と接した際に恐らく不利益を被るであろうという目算があって、敬語を教えることはしつけになる、かなあ?

 と考えるとやはり「しつけ」にはその人(存在)に対する、なんらかの利益をある程度見込んでいないと成立しないことなのではないか。作法というのは振る舞いのことだから自由気侭ではなく、なんらかの強制を強いることになる。その強制によって得られるものが何の強制もない時よりも多くないとしつけの意味がなくなるんじゃないか。そしてその利益とは個人間だけで成立するものでなく多くの他者や社会を想定してものに結果的になるのではないか、と思ったのでした。

 今回はしつけとはどうあるべきか、ということが焦点ではなく、しつけとは何でないか、という話でした。
 今週は以上です。

今週の一曲

Hair Stylistics - Sleigh Ride
www.youtube.com
中原昌也のノイズユニット名義Hair Stylisticsのこの曲はすごくポップで最高です。

おまけ

 家の猫はトイレは猫用のトイレでちゃんとしてくれる。ありがたいですが、まあこれは彼に強いた強制であるよな。ごはんの時間も人間が決めたものだし。たまに壁でつめ研ぎするけど、これはもう諦めている。あとはできるだけ自由に気楽に暮らしてくれたらいいんだけどね。と狭い部屋に閉じ込めている私が思う。うう…
 ショーペンハウエルの本に、もし鎖に繋がれた犬やカゴの鳥が喋れたら、飼い主に向かって「お前は私の人生を地獄に変えるところの悪魔だ」と言うだろうとか書いていた。私はこれは正しいのではないか、正しいかどうかわからなくとも、少なくともその視点は持ち続けないといけないのではないかと思う。

*1: