読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

第13回:好き、楽しい、という感覚(前半戦)

おリス通信

 久しぶりにあった友達や初めて会った人とでも、話す際には普段は何をしているのかを問うたり問われたりする。これは会話の基本的な形式なので、それについて何か思うことはないのだけど(あるけど)それにどう答えるのかはいつも考える。私は普段何をしているのか?なかなか難しい問題だ…というかあまり覚えていない…
 そしてしばらく考えて
「ヒマなときには絵を描くか、見るか、音楽を聴くか、音楽をパソコンで自分で作るか、しています」
 などと答える。昔からの友達は美大に通っていた頃に知り合った人が多いので「コイツは相変わらずだな」と理解してもらえるんだけど、そうでない人*1は普段ヒマなときに絵を描いたり音楽を作ったりすることは「なにか特別なこと」のように捉えているフシがあって「音楽を作ったり絵を描いたりすることが好きなんだな」といった理解というか言葉によって納得される。
 「何かをすることが好き」ということと「それをすることは楽しい」ということはだいたいセットになって理解されているし、自分もそういう言葉遣いをしてしまうんだけど、だんだんその言葉と実際に感じている感覚にズレが出来てきている、ということを今日は話したい。

 「音楽を作ったり絵を描いたりすることが好き」な人は「音楽を作ったり絵を描いたりするのは楽しいことだ」と感じているという理解がそこにはあるような気がする…というかそう解釈しても変ではない、ですよね?そこには

「楽しいことだから自分からするんだろう」
「わざわざしなくていいことで、しかも嫌いなことならわざわざしないだろう」
「それをわざわざするってことはそれをすることが好きなんだろう。楽しいんだろう」

 という基本的な理路がある。もちろん嫌いなことでもしなければならないこと(仕事とか)や、すすんではしたくないけどしないままに放置するよりはした方がマシ、もしくは習慣となっていること(掃除とか墓参りとか厭になってきた相手とのセックスとか)などの存在も各自理解しているはずなんだけど、音楽を作ったり絵を描いたりすることは「自主的に」行われる(そこにはモチベーションのある)行為として捉えられる。
 ここで言いたいのはそれらの行為の違い(掃除や墓参りと自主的に作品を制作することの違い)についてではなく、その行為に対しての感覚が変わること、どこかの時点で感じていた「楽しい」「好きだ」という感覚やモチベーションはどこかの時点で何かよくわからないものに変化して、そして行為だけがそのまま残っているということです。

 以前に絵を描いたり音楽を作ったりしていたときに感じていた「楽しい」「それをするのが好きだ」という感覚は、時を経るにつれどんどん消えてなくなっていく*2。そして楽しくない(相対的に苦痛になっていく)行為とその習慣だけがなぜか残る。現在はそんな状態になっている。

 これは「その行為すなわち即楽しい」という時点からその行為が始まっているので(絵を描くのは即楽しい、音楽を聴く/作るのは即楽しい)その差異は著しい。不思議なことに、それをしてももうたいして楽しくないのにも関わらず「楽しい/好きになれることという物差し」を当てて、新しいもの(絵や音楽)を探したりする。
 要するに、ヒマなときに「何か楽しいことをしよう」「自分を楽しませよう」という考え方/姿勢が自分に根付いていて、そして以前楽しかったこと、「絵を見たり描いたり」「音楽を探したり作ったり」をする。しかしその行為はもうさっぱり楽しくない、ということが起こる。端的に言うと「自分はもう何に対しても楽しいとは感じないのに、楽しいことを求める姿勢はなかなか変わらない」。

 これはおそらく、楽しいからそれをするという段階はわりと早い時点で過ぎちゃって、その後はしなきゃならないからする、なぜかよくわからないがする、などいろんな姿勢に移るんだけど、言葉遣い(頭の中での言葉遣いは即考えなので、考え方)は意識しないとそれほど柔軟に変化しないので以前からの言葉遣い「何か楽しいことないかな」でものごとを考えたり捉えたりしてしまうからだと思われる。
 たぶんイチローはもう「野球は楽しい」という言葉遣いや認識はしないと思うんだけど、もししたとしてもその「楽しい」は彼が初めて野球をした頃の感覚とは全く違っている。しかし同じ言葉を一応あてているという状態になるだろう。

 となるとこれは言葉や会話の形式によって考え方が限定されるという話にもなるのだけど、(「最近はどんな楽しくないことをしているの?」という会話したことあります?)我々は楽しいことをする/し続けるのは自然で、楽しくもないことをしつづけるのはなんか変だと考えてしまう。そして楽しくないという言葉をあてていることは、やはりしたくないままなのである。
 で、なんとかこの「楽しくないけどしなきゃならん」「楽しくはないけどする」という考え方に徐々に移行しているのが今の自分の状態なんですね*3。そう、もう自分で自主的にやってることでも楽しいことはないのだ。絵を描くのも音楽を作るのも楽しくない。苦痛だ。でもまだそれをしている。楽しくなくなってそれをしなくなった人との間には何か違いはあるのだろうか?それはちょっとわからないけど…

 とにかく、絵を描くのも音楽を作るのももうさっぱり楽しくない。どちらかというと苦痛だ。だから出来るだけそれをしないで済むように生活してしまう。だがそれ(絵を描いたり音楽を作ったり)をしないと一日が終わらない。
 この「一日が終わらない」という感覚がなにかとても核心をついているという自覚はあって、よくわからないけどこの感覚のせいで続けている。
 後半戦はこの「一日が終わらない」という感覚と、さらに細かな「楽しい/好き」と感じる瞬間について書きたい。

ということで今週は以上です。

今週の一曲

www.youtube.com
ぼくはわりとこーいうノスタルジックな映像と曲調のヒップホップが好きですね。

それではまた来週。

*1:もしくは学校を卒業して、音楽や絵や自分の作品を作るのを止めた友達も

*2:そういう変化に対して「飽きる」という言葉も用意されているのだけれど、その言葉はうまくあてはまらない

*3:たぶんこれ、子供が出来たり配偶者が出来たりしたら鍛えられやすい考え方の形式なんだと思うけど、私はどちらもないのでそこが未熟なんだろうと思う