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紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

第18回:思想の正しさを担保するもの/ガイド(標識)としての他人の考え

今週の一曲

今週の一曲を冒頭にもってくればこの音楽を聴き乍ら文章を読めるのでこっちの方がいいかなと思いましたのでやります。
www.youtube.com
武満徹の波の盆
とてもうつくし

本文

 私は私の経験から、ものの善し悪しを個人的に判断する。その判断が、ある程度の普遍に適応出来ると思える場合には意見として言ったり、書いたりする。覚醒剤はやらない方がいいとか嘘はつかない方がいいとか、できればなにものをも殺さない方がいいとか。その判断はあくまでも私の個人的な覗き穴から覗き見た普遍であって、その仮の普遍の有り様に適さない人も多くいる。

 その人がどのように考えたかということと、その人がどのように行動したか、生きたか、ということはピタリと合致しない。すくなくとも合致するケースは少ない。それは考えや姿勢というもののあまりの豊かさ大きさ故に、現実の出来事の小ささと比べられないからだろう。毎日なんらかの食事をとらなければならない存在にとって、なにものをも殺さないというのは至難の業だ。その現実に比べて、できればなにものをも殺さない方がいいという考えはあまりにも大きい。理想という薬罐から現実というコップへ水を注ぐとほとんどが溢れてこぼれ落ちてしまう。理想や思想というものはその大きさそのものだともいえる。

 誰かに何かを伝えようとするということは、自分の意見をなんらかの根拠をもって伝えることだけど、その意見そのものには正しさや普遍性はない。ない?ないと思う。意見そのものには正しさは宿りえない。仮に最良なものとしても中立なものだといえる。

 私は倫理的な読み物としてモンテーニュの『エセー』が好きだが、モンテーニュが正しい意見を持っていると確信しているわけではなく、私は『エセー』のなかに自分の行くべき方向を見る。『エセー』はその方向を正しく指し示しているように感じる。絶対的な価値としての正しさではなく、方向を指す機能としての正しさ。「ロサンゼルスへ行くにはこの方向」といった目的への方向の正しさである。わたしは『エセー』によって示されたモンテーニュの考えやその総体を、標識や道端の(正確な)ガイドとして捉えている。
 モンテーニュ本人にとっての『エセー』は自分自身の考えを正しく言い表したものなのか、それとも自分のたどり着きえない理想の姿だったのか、あまりにもヒドい現実の自分から距離をとるためのものだったのか、それは私にはわからない。モンテーニュは実際にはどのような人間だったかということはあまり重要ではない。日常に起こる具体的な出来事は思想にとっては周到に張り巡らされた罠のようなもので、いつだってその小さなつまずきを誘う。私は『エセー』の中で示された思想、考えのようなものとモンテーニュ自身の振る舞いとは分けて考える。というか、他人と他人の考えはそういう捉え方しかできないと思う。

 ということは、私たちは少なくとも頭の中は正直でないといけない。その行動には小さな齟齬があるとしても、その人の中にどのような思想や理想があるのか、ということには嘘をついてはいけない。私はなにものをもを殺さない方がいいと思う。しかし私はなにかを殺す。その際に私は「これは殺したことにならない」と捉えてはいけないと思う。私は何も殺していないが故に私の考えの正しさを立証することはできない。私は正しい者ではない。「私はできればなにものをも殺さない方がいいと思うが、殺した」と正直に捉えるべきだと思う。行動によって思想は正当化されない。思想にとってもっとも重要、かどうかはわからないが、少なくとも守るべきものは正直さである。思想は私よりも大きなものであり、正しくない私によってねじ曲げられるものでない。私のためにあるものでもない。

 私は(たぶんモンテーニュのように)私の書く文章や、わたしの考えの通りの人間ではない。現実にはかなり使い路のない、怠惰で、過ちをくり返す者だと自覚している。しかしそのことと、考えや思想はじつは別のものなのだ。考えや思想は誰かのものという小さな限定的なものでなく、まるで数学の定理のように普遍に(どこにでもあるように)永遠に存在する。卑近で小さな人間にもふと宿る普遍的な考え、そこに思想というものの高貴さ、永遠と呼ばれるなにか美しいものがあると思う。

というわけで今週は以上です。

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