紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:夜になっても遊びつづけろ/一人になっても問いつづけろ

 金井美恵子の本に『夜になっても遊びつづけろ』というかっこいい日本語があるんだけど、夜になっても朝になっても遊びつづけて次の日そのままさらに遊ぶという日がたまにある。で、先日久しぶりにそのような状況になった。
 朝まで遊んだ友達の家で少し寝て、そして起きてさらに遊びに行く準備をしているときに「ああ、これはしんどいな」と思った。しんどいのは肉体的にだけではなくて、このままの自分を引きずって町に出るのはみっともない、町に似合わない、といった精神的なもので、この感覚は以前にはあまり感じなかった。
 たとえ自分が町でいちばん薄汚れて疲れていても、べつに平気で気にしないという時期がある。あった。しかし先日は、この自分はみっともないから町にいるのははばかられるなと感じた。ゆっくり寝て身体をきれいにする必要があるなと思った。なぜだろうと簡単に問うと「それが老いなのだ」と簡単に答えてしまいそうになるけれど、それが正しい問いと答えのセットなのかはよくわからない。

* * *

 先日友達と話していて「さびしいと感じることはあるか?」といったような話題になって、自分はうまく答えられなかった。そのときの自分の中にあった「さびしい」という言葉に対する感覚と、その感情を実際に自分が感じているか疑問だった。ので、家に帰ってから「さびしい」を辞書でひいた。大辞林にはこうある。

さびし・い【寂しい・▼淋しい】
1)あるはずのもの,あってほしいものが欠けていて,満たされない気持ちだ。物足りない。さみしい。
2)人恋しく物悲しい。孤独で心細い。さみしい。
3)人けがなくひっそりしている。心細いほど静かだ。さみしい。
〔「さぶし」の転。中古以降の語〕

 ついでに「さぶし」もひいてみると

さぶ・し【▼淋し】
心が満たされず,楽しくない。さびしい。「山のはにあぢ群むらさわき行くなれど我は—・しゑ君にしあらねば/万葉集486」〔本来,あるべきものが欠けていて,気持ちが満たされない意を表す語。中古以降「さびし」の形で用いられる〕

 とのことだった。この定義で私は意を得てすっきりした。これは各人の人生観によってさびしいと感じる人とそうでない人とに別れるなとも思った。
 私が生きていることや私の手にしたもの、私の手に入らないもの、それらすべては巡り合わせの運と縁によるもので、じつは私にはどうしようもない。偶然という推進力によって自分の人生が運ばれているように感じる者からすれば『本来,あるべきもの』や『あるはずのもの,あってほしいもの』といったものを強く感じることはない。
 『2)人恋しく物悲しい。孤独で心細い。さみしい。』という感情も、特別な機会にわざわざ感じることではなく、自分が個として存在し、そしてそのまま個人的に死んで消えていくことや、その事実の上に成り立っている世界というものは、前提として孤独で寂しいものだと思う。
 要するにさびしさというものは時間と同じように生きているかぎり自分の人生に常に横たわる基本的な構成物であって、何かがあって殊更に感じるようなものではないと私は思っているのだと思う。生きているという状態にとって当たり前のことはわざわざ感じたり意識したりする必要は日常殆どない。

* * *

 他人に問われてうまく答えられなかったことは、後になってもしばらく考えることになる。他人というのは自問しない形の問いを自分に投げてくれるものでもある。と同時に、問い方というものはほとんどその答えと同じでもあって、他人の問い方に自分がうまく答えられないのもそのたびによく理解する。他人の言葉による問い方では自分の中に答えが生まれてこなかったから、自分は別の言葉の組み合わせを使ってなんとかその問題を明確に、答えやすくしようとする。

 問えないものには答えがない。