紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170517 - 孤独にいきましょう

作業日誌

 私は毎日絵を描いているんですが(not タブレット)絵を描いているといろんなことを思う。たぶんこれはマラソン選手が走っているとき、もしくは禅僧が坐禅しているとき(坐禅しているときに考え事してたら意味ないよというのはおいといて)、もしくは哲学者が散歩しているとき、そのような身体のある動きに伴ってある考えが浮かんでくるように、絵を描いていると様々な思いが去来する。
 しかし絵を描いている時は絵を描いているというその行為そのものにピタリと集中していて、そのときに頭をよぎる考えというものは「描くという行為」にくらべてつまらない、たいしたことでないものに感じられる。よってその考えは捨てられる。のですが、これをあとから(目覚めたあとの夢のように)思い出すことができたならそれを書き留めておこうと思っている。それを書くスペースがここです。
 しかしながらもっとも大事なことは「そのとき頭に去来した考えのようなもの」よりも「描くという行為の方に価値がある」と体感して判断する、その集中なのだと思う。言語化する必要がないんだもの。しかも現状描いている間に頭に浮かんだことはほとんど思い出せない。ので絵とか、美術とか、創作とか、そういうことについても書いていこうと思っている。今日は書かない。何も思いつかないから。代わりに最近描いた絵のリンクを貼っておきます。

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恋愛とかパートナーとか結婚とか生活とか

 私のまわりにも結婚や恋愛などの話はよくある。まるで人は当然のように恋愛し、結婚し、もしくは結婚しないという決断をし、生きているような。正直私にはよくわからない。歳も三十を過ぎて、友人が次々に結婚するという時期は一段落したが、そろそろそれらのうち何組かは離婚しだす時期なのではないかなどとも思う。現に離婚した人もいくらかいて、といって彼らは一人でずっと過ごしているふうでもなく相手を捜して様々な活動をしているようだ。もちろん結婚をしていない知り合いも、恋愛もしくはそういった相手を捜すという状態?に常にいるような印象を受ける。たまにあって話すことなどでそう判断している。
 私はどうだろうか。私の性欲の対象は(いまのところ)女だ。そして私はいまほとんど収入がない。たまに入る依頼で絵を描いたりはしているが、その収入だけでとても食べていけない。絵の具も買えないほどに生活が困窮してきたら出稼ぎに出るつもりだが、いまのところ貯金を取り崩して生きている。という状況でまずほとんどすべての女には私は(結婚を暗に含んだ/含まなくとも)恋愛としての対象には見られないだろうと思う。これが(比較的)客観的な認識である。
 では主観的にはどうかというと、これもよくわからない。私は恋愛するような相手を欲しているのだろうか?というと自分から求めるほどには必要としていないのではないかという気がする。というよりも私はいま「どう生きるか」ということを考えている、というか決めようとしているところであって、この決断にはまず他人の存在というものは想定されない。情けないことに自身の生活というものが確立されてないときには他人の存在なんて考えないものだ。と思うのだが…
 しかしこれは理屈であるともいえる。よくわからない。べつに病院や図書館やスーパーや画材屋へ出かけるのと同じように、ある日常のあるポイントで知り合いの女のところへ出かければいいのではないかと問えばべつにそれは不可能でない。
 うーん…ただ、そう。もう「社交」をしていてもしょうがないとは思うのだ。結局のところ私は一人で生きていくという前提をとりあえず自分で抱えて、どうしようかと考えている。それに、朝起きて、顔を洗ってぼんやりキャンバスの前に立って(座って)筆をふるう、するともう夕方になっていて、しかも絵は全く進んでいない。もしくはあまりにもヘタクソで泣きそうになっている。そうしてあっという間に日々が過ぎている。そこに他人を足そうとは思わない。健康的に生きている女性にモデルになって欲しいなと思うことはある。あ、可能性はこれか。

今日の引用:春だなぁと思う - finalventの日記

春だなぁと思う - finalventの日記

ただ、恋愛というのはお手軽なものではないし、三十過ぎれば、自分の孤独というか死の形みたいのを少しずつ引き受けなくてはならない。孤独ということは、指針がないということだ。マニュアルがないということでもある。しいていえば、孤独に生きた人の生き方からその構えを学ぶくらいだろう。生き方というのは真似ができないというのも孤独という意味だ。

あまり言えた義理ではないが、人が人に惚れるというのは、ライフスタイルに惚れるのだ。美醜なんざすぐに化けの皮が剥がれるか、飽きてしまうものだ。ライフスタイルのない人間というのはだから浮遊する。それが小利口であったり美人であったりすれば世間はそこに人間関係のような渦を作り出す。でも、それは、なんというかつまらないことだ。

私は利口でもないし美人・美男子でもない。誰も私の孤独なんか関心を持たない。それは原点なのであって、よい原点だ。その原点に立てない大人も多いように思うが、わからん。知ったことかとも思う。

 わたしがもし誰かのライフスタイルに惚れても、そのひとにはそのひとの生活があり、自分の生活は変わらない。自立した個人同士ががそれぞれなんとなく並走するような人間関係でないと続かない。べつにその相手はいなくてもいい。
 私は、たぶん孤独でいるということを前提にしようとしているのだと思う。誰が側で寝ていても眠りに入るのはひとりぼっちの仕事であるように、孤独というものはどんな相手と一緒にいてもこればかりは無くならないものだという実感がある。しかしそれが人生の味というものだ。この身体や時の流れることが生きているということの前提であるように孤独であるということもまた当たり前の前提なのだと思っている。
 

今日のBGM:Fatboy Slim - Where U Iz (12'' Mix)

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文章がくらいのでせめて明るい曲を…