作業日誌:170519 - 絵を描くのは怒り/詩とモテたいということばについて
作業日誌
絵を描く作業はかなり苦痛である。そのとき描いている絵が完成してもとくになんの意味もない。金にも(ほぼ)ならない。その成果としての無意味さが前提としてある。
しかし絵は具体的に目の前にある。その出来がひどいという怒りがある。パレットに絵の具を足し、線をひき、色をぬり、何かを構成したり消したりする。かたちをとったり崩したり、なんとかしてそのひどい作品を直す…よくしようとする。その作業のモチベーションは怒りに包まれている。こんなひどい出来のものが目の前にある。なんとかしないといけない。自分ではなんともできないのはわかっているのだが放っておくことはできない。クソっ!
無力感と怒り。自分に対する怒り、自分のしたことに対する怒り、それがわたしの絵を描くという作業を構成している。最悪〜。
詩について
なぜか他人の詩に感動できるのは、じつはそれを知っていたからだ。詩は知ることでなくて思い出すこと。
モテたいということばについて
モテたいという気持ちはたぶん恋愛の問題でなくて自己評価とか親との関係性の問題。で、ある人がモテているときというのは多くの他人から好かれている、ではなくて、欲望を向けられている状態だということは知らない振りをしていても自覚しているでしょう。それを心地よいと思うのは以下略。
自分には応えられない欲望を他人から向けられるというのは、たった一人の相手からでもキツいですよ。
とすると、モテているという状態をこなすにはその相手の欲望を軽視する(一時的な、ほぼ無価値なものだと悟る)んですけど、それって結局自分を卑下することになる。だから、あほらしとなってどうでもよくなる。モテたいなんて思わなくなる。あ、多くの向けられた欲望をたとえば経済に回す、チェキを撮るのに金をとったり、CD/DVDを売ったり…というのはあるか。
まあでも「モテたい」ということばが、定型文が社会に存在するから、まるでそのような欲望もあるように錯覚してしまうのだろう。実際にモテたいと感じている人はほとんどいない…のだと思うけれどよくわからない。