紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170521 - 誰が何に向いている?

今日のBGM : Iggy Pop Fun Club - Number Girl

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 懐かしいな〜と思いながら作業中に聴いていた。このビデオの映像はたぶんラストライブの映像なのではないだろうか。学生時代に九州から来ていた友達に誘われたバンドで、この曲をコピーした記憶がある。ナンバーガールはこの曲しか演奏したことがないのでこの曲しか知らないが、とてもいいバンドだと思う。あ、Pixiesのカバーもよかったな。

作業日誌

 ちょっと寝坊して。作業開始は14:00、で17:30まで。かなり目が疲れている。夕食を挟んで18:30~21:00までまた作業。目の痛みで作業を終える。いつも作業後はどろどろに疲れているのだが目の疲労は珍しい。ところで画家のフランシス・ベーコンは朝から作業して夕方に外食、夜はパーティとか会食とかで遊びまくっていたけど全く体を壊すことなく、酒を浴びるほど飲んでも二日酔いはなく、毎日絵を描いていたと読んだことがある。すごい。その作業に向いているということを才能とするなら、天才だ。

 と書いて思ったのだが、そのひとが「何かに向いている」というのは不思議な捉え方だと思う。個人的な作業に関しての場合は特にそうだ。例えばバスケットボールの選手になるということを考えると、そこでは「背の高い人の方が向いている」と言える。しかしたった一人でバスケットボールをして楽しむ場合には背の高さや低さ、もっと言えば手の本数や目の善し悪し、車いすで生活しているかそうでないか、これらはすべて自分の問題となる。そこに向いている/向いていないという物差しは機能しないのではないか?

 たとえなにかが下手でも楽しんでそれをしつづける人がいる一方でとても上手だが本人の心は空虚だということもありうる。それはどちらが「向いている」と言えるのだろうか。