紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170530 - レイ・ジョンソンの亡霊、「死にたい」という言葉

今日のBGM - Juan Atkins & Moritz von Oswald - 2600

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 Juan AtkinsMoritz von Oswald のユニットによるアルバムのうちの一曲。むぎゅむぎゅ言うベースが最高のテクノ。こーいう地味なテクノを聴くと「大人になったなあ」とか思いますね。

作業日誌 - 遊びをせんとや生まれけむ

Ray Johnson Estate
 レイ・ジョンソン (Ray Johnson) について調べたり作品を見たりした。トボケた味のコラージュやドローイング。かなりいい。自分も学生時代にはマンガのようなポップアートのようなモノクロでごちゃごちゃした絵を描いていた。そういった絵は非常にわかりやすいしTシャツやCDジャケットのデザインなどにも使いやすいので受け入れられやすい。しかしそのうちそういう絵をメディアで見る機会がどんどん増えて、飽きてしまった。今描いても学生時代ほどの細かさや偏執さはないので今はもうあまり描かない。…つもりだったんだがレイ・ジョンソンの作品を見て、今日はちょっと久しぶりに描いてみるかという気になって描いてみた。

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 このような絵はだいたいにおいて意味がない。不必要な、もしくは過剰な線やモチーフがおおい。緻密に構成されているとは言い難い。必然性や世界観の完成度からは遠い。稚拙な絵だと思う。もしくは難易度の高いプロジェクトと言えるかもしれない。その絵に意味が産まれにくいのだ。意味があればいいというわけではないのだが、一瞬で意味がないということの分かる絵はやはりつまらない。美人が黙っていて、声や考えがわからないうちはいいのだが、そこに何もないのがわかるとすぐに飽きてしまうのと構造は似ている。なんでもかんでも描けばとりあえず絵ができるというイージーさはいいのだが、いつまでもそこにいてもしょうがない。

「死にたい」という言葉

 「死にたい」と口に出す、SNSに書くひと、ふとつぶやくことはいまとなってはふつうで、沢山いるのでだれか特定のひとのこととしていうわけではないのだが、あくまでも個人的な考えとして「死にたい」という言葉は何を意味しているのかよくわからないし、ゆえにかなり特殊な言葉だと思う。

 たとえばアメリカ大陸やロシア内陸に住む人のなかには海を見たことがないひとがけっこういて「死ぬまでに海を見てみたい」という言葉は文学であれ映画であれインタビューであれ見る事ができる。海というものを見たことはないけど(ので)見てみたい。これは達成されるかわからないけど願望の表出としてわかる。それはいづれの未来に、叶うかどうかわからないけれども長期的な願望としての言葉であって、口に出した瞬間に実行しなくとも意味は理解できる。もうひとつ例えば、眠たいという言葉を考えると、「眠たいな」→「寝た」という言葉から行動への移項は当たり前のこととして予想がつくし「眠たいな」→「そこから一度も寝てない」という状態はちょっとあり得ない。だから「寝た」とわざわざ言われなくても寝たんだろうな(眠たいは解消されたんだろうな)と客観的にはわかるんだけど、「死にたい」はそれがない。「いつか海を見てみたい」「眠たい」「死にたい」は前者二つはある程度意味固定なんだけど、「死にたい」だけはその言葉を発する意味、内包されている情報、実行しない理由がかなり個人差があると言える。

 とここまで考えると「死にたい」の言葉のなかには「死にたい(でも生きるか)」とか「死にたい(でも死ねない)」などの意味がだいたいのケースではじつはセットになってるんだけど、私はマジで発せられた言葉しか読めないので、なんでこの人は『やっぱ生きる』と言ってないのにまだ生きてるんだろう?」と思ってしまっていたのかもしれない。なんか人でなしみたいでイヤだな。

 しかし、たとえばある国では「いや〜、眠たいな」とみんなが言うんだけどだれも眠らない。ずっと「いや〜、眠たいなあ」と言うだけという状況に対峙すれば「この国では『眠たいな』という言葉にはどういう意味があるんだろう?」と不思議に思うと思う。どーやら言葉だけの意味ではないぽいなとか。なので「死にたい」といって本当に死んだ場合だけ初めて「死にたい」の意味が客観的に分かる、「死にたい」といって死んでない場合はその「死にたい」という言葉がそのひとにとってどーいう意味なのかわからないという構造がある。これがかなり特殊だと思うわけだ。

 私はかなり有限不実行男なので「やりたい」「やろう」「やる!」とまで言って何もやってないということはよくある。ただ「死にたい」の場合そこ(有限不実行)にあまり不思議はない。死ぬのは難しいし、構造上一回しか成功する機会はない。ただ、やはり「死にたい」といって死んでない場合(ほとんど死んでない気がする)やはりその「死にたい」には「死にたい」の意味はほとんどないように思う。言葉としては強い意味がある上にどういう意味が含まれているのかわからないという複雑さがある。不思議だ。

 発し発せられたすべての言葉に意味を込め/読み取ろうとするのはみんながみんなするわけではないのかもしれないが、といって誰がどのくらいの割合でやってるのかもその都度わからないのだからこちらとしてはすべての言葉をひとまず言葉そのものとして解読しようとするほかない。

 ところでいま「自殺はクールだ、最高!」って文脈があまり見られないのも問題だよなと思ったんだけどそれについてはまた今度書こうと思う。