紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170531 - 『どんな小さなものでも みつめていると 宇宙につながっている』

今日のBGM : µ-ziq - Brace Yourself (Remix) 33.3rpm Slowed Down

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 1998年作。Planet-µ というレーベルを主催するマイク・パラディナスのソロプロジェクトµ-ziqの、おそらく最も名曲とされている曲、たぶんエレクトロニカ・イーラに量産された多くのアーティストの曲のなかでもこの曲をベストに挙げる人はわりと多いんじゃないでしょうか。私もDJイベントなどでかけまくりました(だれも踊らない)。後述するテーマにも通じる名曲だと思います。タイトルに33rpmとある通り、実際には45rpmでかけるところを33なので、73.333...%のスピード(ようするにちょっとゆっくり目)で曲が流れるバージョンです。元が速い曲なんで、これはこれで味があるなと思って(ドラムがよく聞き取れる)こっちにしました。

作業日誌

 今日は午後中に事務作業で郵便局やコンビニへ行くなどした。夕食後に絵を描くかもしれないが、この日誌は早いうちに書いているのでもちろん未来のことは書かない。

 ところで郵便局のついでに図書館へ行ったのだけど不思議なことがあった。というのも最近、デュシャンのインタビュー集の本を読みたいなと思って部屋を探したけれど見つからなかった(持ってはいる…はず)。これはよくあることなのだけれど、段ボールをひっくり返して探しまわるのもイヤなので諦めていた。しかし最近に読んだ記憶があったので、恐らく図書館で借りたんだろうと思っていたので、今日ついでに図書館へ行って借りてこようと思ったのだが、図書館で検索するとそんな本はないのである。

 すると最近読んだ記憶のあの本は自分の本であり、目のつく場所にありそうなものなのだが見当たらない。謎だ。図書館が最近処分した可能性もある?うーん。

今日の引用 : 曇り - finalventの日記

曇り - finalventの日記
 finalventさんが見た夢の話でおもしろいものがあった。

なにかとてつもないアイデアというか啓示のようなものがあって、あわてて手元のものに書き写した。

Life is the way to understand the God.とかいうフレーズがあったような気がする。(略)ググってみたがそんなフレーズはない

 直訳すると「人生とは神を理解するための道程である」といった意味でしょうか。面白いなと思ったのは「ググってみたがそんなフレーズはない」のところ。というのは、そのもののフレーズはなくともこの感覚がある人は私を含めけっこういると思っているからだ。芸術家や詩人というものはまさにそうだろうと思う。

 この感覚を完全に言語化して自分に定着したと自覚したのは遥か彼方の大昔に幻覚を感じた日からだと思う。そのときの体験は個人差はかなりあると思うのだけれどおおよそハクスリーの『知覚の扉』に書いてあることで説明は足ると思う。とにかくそのような不思議体験のなかで強く感じたことは「何かとの強烈な一体感と同時に何かから断片化された自意識、自分は何かの一部なのだという感覚」のようなものだった。そのなにかというのはfinalventさんはGodと書いているけれど、各人によってwhole worldとかuniverseとか曼荼羅とか宇宙とかに置き換えられるのだと思う。

 ただこれは体験として起こったということで、私はこの感覚をかなり小さな頃から抱いていて、なんらかの創作や芸術作品に触れる際にはそこに当たり前のようにこの感覚を見いだしてきた。「人生は『なにか』を知るためのものなんじゃないか」という意識をずっと持っていた。いつからだろうか?そのスタート地点は死を知った時かもしれない。「死とは何か」という問いが、宇宙とは何か、神とは何か、生きることとは何か、悟りとは何か、自分とは何かといった様々な問いを呼び、形を変えて自分に偏在してきたように思う。そして「人生とはすべてを理解するための長い道のりなのだ」という解釈は、なぜか最も基本的な態度、姿勢として自分に根付いている。

 その答えはおそらく抽象的な形でしか表現できないものなのだろうと思う。生きることそのものは具体的なものだけれどもそれを表現すると抽象的なものになるはずだという確信があって、私も学生の頃から抽象的な作品を作るようになった。「何かとの強烈な一体感と同時に何かから断片化された自意識、自分は何かの一部なのだという感覚」があるが故に自分というものを知ろうとする、自分という断片を通して全体を知ろうとする。これはとても真っ当なことのように私には思える。なので、この感覚は個人的ななにかを表現しようとする人にはみんな具わっているものなのだと思っている。逆に言うとこの感覚の有る無しがそのひとの創作の必然性を示す。私は自身の創作もそうだが、他人の美術作品を見もするし、抽象的な音楽も詩も読むし、幻覚剤をやっている人の手記も、悟りや宇宙意識や素粒子物理学脳科学について書かれた本も読む。それらはすべてこの世界が一体どうなっているのかを個人個人が調べて翻訳したものだと思っている。

 まど・みちおさんの詩集に『どんな小さなものでも みつめていると 宇宙につながっている』というものがあって(100歳を超えてから作られた詩集!)、これなんてまさに上述の感覚をそのまま言い表したような言葉だと思う。ただ、この感覚はある人には当然のようにあるのだが、すべての人がこの感覚を常に感じているのかは少し微妙だといろんな人を眺めて思う。私にとってこの言葉は「ふつうの」言葉であると思うのだが、これが「詩集」になって、まるで名言のように捉えられている時点で社会においては特殊な感覚なのだろうと思う。

 まど・みちおさんの言葉は、個人的なふつうの感覚をあらわしたすなおで美しい言葉だと思う。