紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170601 - 意識の消失と同意について

今日のBGM : Daniel Johnston - Living Life

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 ダニエル・ジョンストン大好き。わたしはこのような素直で正直な詩人のような人が好きですね。

作業日誌

 メモをとらなかったので消えた

意識の消失と同意について

 ある女性が準強姦(ごうかん)被害を受けたが不起訴とされたのは不当として、検察審査会に審査を申し立てたというニュースがあった。このニュースに関してはちょっと調べてみたけど現段階ではさっぱりよくわからないので置いておくとして、このニュースを期に意識の有る無しと同意というものについて考えたことをメモしておく。

 まず意識がないという状態を単純に「後になってその時期の記憶を想起できない期間の状態」とします。記憶がない、覚えてない、当時の自分の判断も知らない、ということですね。この定義にはたとえばある種のモノとモノを一緒に摂取すると、もしくはあるモノを過剰に摂取すると体は動いているけれどその間の記憶はさっぱり抜けている前進性健忘を引き起こすことが可能であるということが前提されています。話したり、歩いたり、言語による受け答えや判断は(客観的には)しているけども後になると本人はそのことをまったく覚えていない。怖いですね。

 ここで問題にしたいのは意識のないときに自分の身体に何かをされるということについてです。性行為とかタトゥを入れるとか水を飲ますとか汚れた服を着替えさせるとか。意識のない側はそのされた「何か」については再び意識を取り戻したあとに「不快だ」とか「ありがたいな」などと判断するわけですね。

 で、これは経験なんですが、私は友達と酒を飲んでいて一緒に自宅へ帰り、そのまま眠って意識を失っているときにエルヴィス・プレスリーみたいに自分の吐いたゲロで溺れて死にそうだったところを友だちに助けられたという経験があります。このとき自分にはもちろん意識はないので苦しいとか死にたくないとかいう判断もない。しかし友達は偶然起きてくれて、私をゲロの海から救い出し、ふとんや顔や服を拭いてまた私を寝かしてくれた。ここには私の同意はありません。もしかしたら友達は「ちょっと体うごかすよ」とか「服をぬがせるよ」などと言ったのかもしれず、そしてそれに対して私は「うう」とか「…」とか言ったのかもしれませんが、意識がないのでわからない。ようするに私の側からすればそこに「同意」はなかったと判断してもおかしくはないわけです。しかし、私が次の日に目覚めたのは友達のおかげです。もちろん私は次の朝、友達に対して感謝をし、自分の不甲斐なさを詫び、そして友達の苦労に比して私のしてもらったことに対する記憶のなさを反省しました。

 しかしその夜、もし私がじつは寝ゲロによるアート作品をふとんの上に展開するアーティストであれば、その晩の寝ゲロも命を賭けた作品制作であり、それを始末した友人に対して翌朝「勝手になんてことをしてくれたんだ、おれは死んでもいいから作品を作りたかったのに」と怒ることもあり得るわけです。私がその夜、相手がゲロを掃除しようとしたときに「いや、これはこれで置いておいてくれ」と言えばそれでよかったのでしょうが、私は眠っていて…ここが重要なのですが、反応もしなかった/反応したが止めたのか止めなかったのかはわからない。意識がないから。ということは私の意識がそのときにないということは相手の行為を止めること/受け入れたことをも忘れてしまっていて、あとになってその責任を相手に求めてしまわざるを得ないという危険性があるということでもあります。後になって「自分ならあのようなことをするはずがない」「あのような行為を許すはずがない、同意するはずがない」と。

 意識を失っている側からすればそのとき同意したことにはあとになって何の意味もないということになりますが(そのことを覚えてないから)、意識を失っていない側からすればそれは同意とみなして行動する。そしてその「同意」があったかどうかはあとになるとわからないという構造がある。

 もちろん、意識のない状態の私の体に対して結果的に善いことであろうが悪いことであろうが一切の行為を禁ずる。それは越権である。という考えもある。(私はこれが真っ当だと思うのだけれど)しかし「自分が意識を失った際にはこうしてくれ(こうしないでくれ)」ということを前もって一緒にいる相手に事細かに伝えるという行為は一般的でない。というか他人の前で意識を失うということが一般的でないですが…、ともあれ長く連れ添った恋人同士であったり友達であれば、事前の取り決めやその都度の同意がなくともある程度は相手の利になるように友愛の精神をもって対処するでしょう。けれどもその友愛の精神から行ったことに対して、意識を失った人物が後になって必ずしも感謝するかといえばわからない。

 これは相手の意識がなくて、あとになって覚えてなくて恐ろしいというのは一緒にいて正気で取り残された側(記憶がある方)ということでもあります。たとえば気心知れた(と思っている)恋人同士でもふとしたことでケンカや言い争いになってしまうことは茶飯事です。そこに片一方の記憶の欠落があれば誤解や様々な解釈が生まれうるでしょう。相手が泥酔して寝てしまった際に、ベルトが苦しかろうと思って外してやる、ピタピタのジーンズを脱がしてパジャマに着替えさせてやる、これらの行為に対してあとでどのように解釈されるかは究極のところ謎です。もしくは相手が寝ながら勝手に脱いで全裸になっても、そのことを覚えていなければ一緒にいた自分がしたことと相手に思われてもおかしくはない。相手に頼まれてさらに酒を飲ませてやっても、相手は次の日にそれを覚えておらず…などどんなことでも考えられます。

 自分の意識を失うということは、私は個人的には「その間に何が起こっても自分の責任として受け入れるほかないな」と思っています。それは「そうなってしまうと、自分ではもうどうしようもない」という構造であるということを認識していながら、そうなってしまった自分の責任だと思うからです。それは意識を失った相手には何をしてもいいという意味ではありませんし、意図して相手の意識を失わせるような行為は卑劣なことだとも思います。