紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170611 - 最低の曲、最高のライブ/ゲシュタルト、言語改良について

今日のBGM : 佐伯誠之助『マ◉コ臭い!』

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 とにかく最高のライブをする佐伯誠之助のかなりIQの低い曲です。他にも最低の曲がガンガンプレイされるライブは必見です。

作業日誌

 昨日の続き。作業中に考えていたことは以下

ゲシュタルトってなあに?あと言語改良について

 ゲシュタルト崩壊という言葉の意味はまあなんとなくわかるんだけど、んじゃゲシュタルトだけだとどういう意味なのかというとよくわからない…ので手元の辞書で調べてみます。

《形態•姿などの意》知覚現象や認識活動を説明する概念で、部分の総和としてとらえられない合体構造に備わっている、特有の全体的構造をいう。形態。

 
  と言われてもなあ…まあ例えば象を見て「象だ」とわかるということ、その際に認識している象の全体像のようなものでしょうか。

 ところで高松次郎デュシャンの作品はゲシュタルトを新たに作っているといえる。というか芸術作品のうちの「それそのものがそれであり他の何ものでもないもの」は新しいゲシュタルト的である。でもたとえば「眠い」という概念を具体化した芸術作品は違うかもしれない(言葉の使い方あってるのかな?)。

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

あなたの人生の物語 (ハヤカワ文庫SF)

 なんでいきなりゲシュタルトの話をするのかというと、昨日今日と言語改良について考えていて、なんで言語改良なんてことを考えるのかというとテッド・チャンの短篇『理解』について調べたから。なんでテッド・チャンの…とつづくといつまでもつづくので終わりにすると、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』という短編集に『理解』という短篇があってその短篇の解説(を引用しているブログの文章)に

 知能が極限まで高くなるとどうなるのであろうか?(略)この本全体を通して、科学的な描写の正しさは心地よいが、知能が極端に高い存在にとって世界がどう見えるのかを見事に描く。私がこれまでに読んだ本や映画のなかで、最も的確な描写である。

 知能が極端に発達した主人公は、誰よりも予測能力が高く、世界を「ゲシュタルト的に」理解し、自らつくり出した概念に次々と名前をつけていく。

テッド・チャン「理解」を読み直す - mmpoloの日記 
 
 とある。この
“世界を「ゲシュタルト的に」理解し、”
 というところがよくわからなかったのでいろいろと考えていたのでした。世界を全体的構造として理解するという意味として…これが何か特別なことなのだろうか?と。

 ところで
“自らつくり出した概念に次々と名前をつけていく”
 というこの行為は芸術家や哲学者や数学者や自閉症者や中学生でも日常的に行っていることであるが、それが「知的」という物差しで測れることかというとうーん、と思わざるをえない。知というものは答えのあるものに対しては合理と距離(というかその距離の短さを合理というんだけど)であり、答えのわからないものに対してはその態度の有り様である(持論です)というただそれだけのことなので、“自らつくり出した概念に次々と名前をつけていく”ということ、例えばそれがだれとも共有できない概念であれば、それに名付ける行為をどうやって知的だと認識するのだろうかという問いはある。新しい概念に名前をつけるのは、それについての考えの道筋をイチから辿ることのショートカットを作るということであるが、そもそも社会的に名前のついていないものへのショートカットというものはえてして使いみちがないものであり、とすると自分にしか、もしくはごく少数の他人にしか作用しない。しかしその少数にとってはとても便利な近道だとすればやはり知的だと言えるのだろうか。まあ言ってもいいか。それって合理だし。

 ただまあ基本的には知とは社会や他人から独立したものでないという考えも私にはあるのでカントの『純粋理性批判』もニーチェの『ツァラトゥストラ』も万人にわかる道筋であるべきであって、やはりそこからはみ出していない。それが知的という態度なんじゃないかとか。『純粋理性批判』なんてだれが読めるんだよというツッコミはあるとしても…

 しかしそこで高松次郎デュシャンの作品のような合理とは全く違うベクトルのもの、ただそれであるもの、そのような存在は(合理的な)知的なものとは言えないが故に私は知的だと感じる。矛盾しているようですが…。というのも「遊び」や「矛盾」や「無為」や「理解できないもの」これらに対する態度として知的であるというのは物差しとしてあると思うんですよね。知的である、とはその枠の外にも作用するものだと思うわけです。そこが人間の可能性というか、理解できるものに対してしか作用しない知って意味ないでしょう。

 話は戻って、んじゃ今我々の使っている日常的な言語こそが宇宙物理学でいうファインチューニングされたものなのか?というとそれもよくわからない。これは単純に不思議だ。ありもので作れるものを作っているとも言えるし、ありものによって限界が定められているんだからそこからはみ出ることも不可能だという考え方もありですが、でも芸術家も数学者も自閉症者も中学生も自分で新しい言語を作って遊んでるんだからカンペキにチューニングされてるとも言えないか。でも柔軟性はある。

テッド・チャンの『理解』と言語改良についての参考URL
http://user.keio.ac.jp/~ua947285/reading/20081009_rikai.html