作業日誌:170615 - Youtubeのアルバム、絵画表現は発明
今日のBGM : The Menzingers - After The Party
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The Menzingersの今年出たアルバム『After The Party』けっこう何度も聴いていて、そしてべつに珍しい表現じゃないけれどAfter The Partyという言葉になぜかグッときている。このアルバムも全体的にちょっと憂いがあって、そこがいい。生きてるとパーティーが終わってからの時間の方が長いのだという感覚がふつうに具わっていて、なぜかその感覚がかつての(終わったパーティーへの)懐かしさや郷愁を感じさせるのかもしれない。アンドリュー・W・Kでさえパーティーしてない時間の方が長いだろう。
ところで上記動画のようにYoutubeにはアルバム全曲がゴソッとおいてある。よくも悪くも(私はいいことだと思いますが)もう五年もしたらこれが標準になるでしょう。日本はもうちょっと遅れるかもしれませんが。
作業日誌
現代の絵画表現というものはゴールがありふれたところであることがほぼあり得ないので、手法の発明がほぼそのまま表現となる。「いかにそこへ行くか」の苦労がキャンバスに乗っていると言える。なので新しい表現のために発明されるべき手法というものは芸術家にはなかなか訪れない。そこが苦労である。しかしあるときふと新たな表現法がふと降ってくる、これは非常な幸福である。
そこで芸術家が二通りに別れる。その手法をみずからの作品、作家性としてのシグネチャーとして延々くり返すタイプ(このタイプがなぜかとても多い。認知されやすいからでしょう)と発明の快感に取り憑かれて(だと思うのだが)発明そのものに重きをおくがために、発明がすむとすぐ別の表現に移って行くタイプ。大竹伸朗がどこかのインタビューで質問者に「なぜどんどん絵柄が変わるんですか?」との質問に「二、三枚描くと飽きちゃうんですよね」と言っているがまさにこのタイプだろう。しかし大竹伸朗のようなスタイルは意外なことにかなりの例外で、芸術家、画家といえどもある種自分のコピーをくり返して制作している。それは一人の人間の限界と絵画というものの奥深さの天秤の結果であると同時に、フロンティアスピリットというか、だれもやってないことをいつまでもやろうとするのは芸術家の中でもかなり珍しいのだ、ということが出来ると思う。いちど売れてしまうと特に難しいのかもね。