紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170616 - 内面はないね

今日のBGM : The Wannadies - Hit

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 これもなつかCDです。15年ほど前によく聴いた。クラブでもよくかかってたんだけど、こういう曲のかかるイベントっていまもあるんでしょうか。よくわからない。昔はギターポップとか呼ばれてたんだけど。

作業日誌

 今日も昨日の続き。紙には裏と表がある…というと当たり前なんだけど絵を描くための紙には裏と表には肌のテクスチャーの明確な違いがある。当然表に絵を描くんだけど、紙によっては裏表がわかりにくくて裏に描いていることもある。表に描いていたけれど気に入らなくて裏に新しい絵を描くこともある。今日はそれだった。

内面はないね

芭蕉全発句 (講談社学術文庫)

芭蕉全発句 (講談社学術文庫)

 ところで作業の休憩中にテレビをつけたら芸能人に詠ませた俳句を品評する番組が放送されていた。その品評する先生がいい句とそうでないものの違いとしてまず仰っていたのが、その情景が浮かぶかってことだった。これにはとても納得、というかどんな表現にも基本的なことだと思う。数年前からトイレに講談社学術文庫の『芭蕉全発句』を置いといて際にちらちらと読んでいるのだけど、基本的に芭蕉さんの句もだいたいがあくまで具体的なその場所のその瞬間の描写なんだよね。

 ツイッターのフォロワーさんの言葉で、

芭蕉のことを挙げながら「俳句とはただ率直な、ある場所のある瞬間に起こったことである」って説明されている

 とまさにそーいうことなんだけど、絵もそもそも現代は抽象画というものが既に過去の発明として、皆の知識としてすでにあるからそれを描いちゃえるし、あたかも内面を表現するということが当然のように思われているフシがあるけど、それは間違い。ある瞬間の、ある場所の、あるものを描く。これが基本。

 芭蕉の句も誰かが描く絵画も、基本的には具体的にそこにあるもの、そこ、を描写する。それが基本で、それがいかにできたかという評価が下される。で、その具体的なものの描写からなぜかそのひとの内面であるとか抽象的な感覚であるとかが見いだせるというのが特別な奇跡である、ということ。それは副次的な産物であるということ。なので、まず現実をしっかり捉えるいい目、もしくは他人が見ていないようなところを見ている目や、見たものをしっかり描く技術がないと俳句も絵もいいものは出来ない。抽象的なもの、心情的なもの、情感のようなものは最初から狙っても、無い。それは稚拙な勘違いや勝手な解釈による共感であることがほとんどである。

 具体的な表現から受け手が何かを感じるというとてもよい例があったので引用します。もとになった作文(の写真は)以下にあります。
https://twitter.com/rimpacking/status/874596790779092994

 メリヤスこうばへいった おかあさん
 
さんかん日のあさ、
おかあちゃんは
メリヤスこうばへいく かまえをしました。
「おかあちゃん、まって」
と、おいかけたけれど、
自てん車で、いってしまいました。
「いつもとちがう のせていてくれん」
はらがたって、ひきかえしました。
はらがたって やまらんから、
けいくんにもろうた二年生のテストをしました。
りか二まい こくご一まい さんすう一まい
しました。
かがみをみたり
ベッドにころんだりしました。
ひきだしを
しめたりあけたりしました
 
 (中村市下田小二年 しまむら まみ)

 これ子どもの作文なんだけど “はらがたって やまらんから、” につづく具体的な描写から、何かを読み取るというこっちの働きが喚起されるわけで、書いた当人はその内面とか心情を表現しようとしてそれを書いてないんだよね。ただベッドにころんだり、ひきだしをしめたりあけたりしたことをそのまま書いてるだけ。子どものころは天才だからこーいうことが簡単にできるんだけど、われわれはそのうち天才じゃなくなってから何か表現するハメになるんで、どうしても技術的に自覚的にやっていくしかない。

 観覧車のある有名な淡路島のパーキングエリアへいくと、展望台から兵庫の町並みをのぞきながら、芭蕉の詠んだ「かたつぶり 角振り分けよ 須磨明石」を思う。これもやっぱりかなり具体的な情景なんだよね。