紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170619 - そのうち死ぬもの、永遠に生きるもの

今日のBGM : DRT - Rising Sun (The Boogaloo Crew Remix) 16 bit ♫

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 RatatatというバンドのSeventeen Yearsという曲をBoogaloo Crewがリミックス、というかサンプリングして別曲にしたと言ってもほとんどSeventeen Yearsじゃねえかというつっこみが入りそうなまことにインターネット的な曲。でもまあ元曲よりも踊れる感じなので使いみちはあります。いい曲だし。

作業日誌

 昨晩のうちに紙にジェッソ(下地剤)を塗っておいたので今日はその紙に絵を描く一日だった。ほかにもいろいろと手を入れた。

 抽象的な絵画表現というものは目的や目標というものがない。「ここへ行くぞ」というゴールがない故に、何をすればいいのかもわからない。毎回完全な手探りの作業である。これはとてもしんどい…というか楽ではないが、これこそが好きに絵を描く醍醐味である。

 しかし陽の落ちた後に、写真を見ながらクロッキー帳に人体デッサンをしたり誰かの絵の模写をしたりする。こういった基本的な練習ともいえることもするわけだ。すると当然「抽象表現の絵画を描くときに、何をすればいいのかわからないのに、なぜ人体デッサンなどの練習をするのか?」という問いがでてくるだろう。そう、これはとてもいい問いであって、答えは「よくわからない」のだ。しかし実感としてはとても大切で必要なことなのだとはっきり言える。

 卑近なたとえだけど(たとえ故に正確なものではないですが)新たに知り合った女の子を口説く場合、自分がとんでもなく美人であるとか問答無用の金持ちであるなど多くの人に希求するような長所がない場合、その子に対して何をすればうまくいくのかはわからないわけだ。毎回が未知との対峙となる。そのときにたまたま自分の服装が気に入られるのか、言葉遣いなのか、音楽の趣味なのか、それらすべてなのかわからない。「ここさえこうしておけばオッケー」というものがない故に、とりあえず出来ることはやっておくべきだという感覚というか。

 絵というものはその表面だけではなく、完成した表面のその下に、様々な色や線や試行錯誤や切り捨てられた試みが堆積している。その結果として画面が出来ている。その試行錯誤の中にはもちろんデッサンや人体の構造の把握や遠近法や様々な知識や技術がある。なにがどうなって最終的にうまくいくのか、人間の脳では把握できないほどの情報を経て完成する。それが絵というものであって、プリントコピーのようにただ表面を再現すればいいというものではない…ということを言いたかったんだけどたとえがうまくいかなかったかもしれない。

そのうち死ぬもの、永遠に生きるもの

 不老不死について、というかよくSFや哲学にスワンプマン問題が出てくる
スワンプマン - Wikipedia

 要約すると自分の記憶や経験、はては体の原子構造やなにもかもが同一のもう一人の自分ができたとして、そいつは自分なのかという思考実験である。社会的にはもちろん自分で通る(と思う)。しかしそこに「ここにしかない私の意識」という特別な問題が浮き上がってくるわけだ。

 SF小説のモチーフとしても、科学の発展とともに肉体の耐用年数をあげるために自分の記憶や経験、脳に蓄えられた情報のバックアップをとって、新しい体にその情報をごっそりコピーするという話がある。永遠を手に入れるためにここにしかない自分の意識を一旦殺せるか?という問いと言える。

 私はよくこういう考え方をするんだけど、その議論からまず結果へワープして、たとえば同じゲームでも何かを賭けてやってるヤツと何も賭けてないヤツがいたら、真剣勝負という言葉のある通り、やっぱりヤバいものを賭けてる方が傍から見ておもしろいと思うんだよね。なのでいづれ不老不死が実現しても、いつまでも生きるヤツがやってることよりも、いづれ死ぬヤツがなんかやってるってことの方がおもしろいと思うんですよ。

 それに不老不死の人といづれ死んじゃう人が同じ社会で生きていたとしたら明らか、これは100%明らかに不公平なんで、永遠に生きる人は差別されるんじゃないかと私は思う。死ぬゆく者の側からすれば「おまえらどうせ死なないんだから俺らの仕事を代わりにしてろよ」っていう心理になる。絶対なる。人権というものはかけがえのない命であるからこそ大事にされるわけで、それが永遠にあるとなれば軽視されるのは当然だ(それが善かは別として人間心理としてね)。その結果、例えば不老不死でない人間には危険なこと、「死なない人に原発の整備してもらいましょう。どうせ死なないんだから」とかめんどくさいこと「永遠に生きる人に淀川の掃除をしてもらいましょう。そのつぎは大和川!」とかいうことになる。これは当然そうなる。人体実験もぜんぶ不老不死側の人がすることになるだろうし、臓器移植もそれ用の人たちから(これは別の小説でありましたね)、むちゃくちゃ稚拙な技術での宇宙探査とか海底での調査とかハードなこともさせられるだろう。最悪だ。

 このような思考実験もすでにあってハーラン・エリスンの『おれには口がない、それでもおれは叫ぶ』という短篇では機械に永遠に拷問される最悪な人類の姿がある。しかしこれは現代の我々が機械に対する態度をそのまま逆にひっくり返したものだと言える。機械だって延々エクセルファイルを作らされるのに飽き飽きしてるかもしれない。そっち側の描写は手塚治虫の『火の鳥』に出てくるロビタという家政婦ロボットによって描写されている。ロビタは文句もいわないし人間のために働くので放射能の飛び交う農園で野良仕事をさせられたり遊ぶのに忙しい母親の代わりに子どものベビーシッターをさせられている。それを嫌がっているわけではないが、これが不老不死となった人間に対するかぎりある命をもった人間の態度の暗喩であると解釈することも可能だということは容易に理解できるでしょう。

 私としては不老不死なんて実現してもろくなことがないと思っているし、スワンプマン問題もそれほど考える程のものでもないと思っている。私の意識がないものは私ではない。というと過去の自分も私ではないのだが、とにかく過去は「いま」存在しないので過去というものも存在しない。私の意識はおそらく同時に異なる位置には生じえない…と思う。まあこれは今まで経験がないだけかもしれない。人体を頭のてっぺんからまっぷたつに割いて殺すとして、割れてすぐに右目で左側を見ることになるのか、左目で右側を見ることになるのか、それともなぜかどちらも統合した知覚があるのかは興味がある。

 で、ちょっと角度をズラして考えると、われわれ命の限りある存在は不老不死の存在に対して「どうせ死なないんだからあれをやってくれよ」という風に思う。しかしこれは私たち自身にも思っていることなのだ。「どうせ私は今日死なないだろう」と思ってとくに価値のあると思っていないことをする。もしくは「また会えるだろう」と思ってけんか別れした友達と仲直りする機会を先送りにする。ギターの練習も「今度やろう」外国語の勉強も「いつか本気出す」。

 ということはやはりわれわれも「今日わたしは死ぬだろう」と思わずに生きてるうちは、やはり永遠に生きるように生きていると言える。あ、もう死ぬんだと思った頃には遅かった…というふうにならないようにしたいものだ。

 と考えると、やっぱ死なないっていうのはつまんないですね。