紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170629 - アーティストという免罪符

アーティストという免罪符


 一応引用も

不良なのがHIP-HOPだからとかじゃなくて、そもそもアーティスト全般に世間一般の常識を説くのが間違えてる。
逸脱してんだよはなから。
本質的には好きな事だけやって飯食ってんだぞ。マトモな訳無いだろ。

 この発言をしたひとはラッパーらしいのでこの発言まで何らかの文脈があってそれに対して言ってるのかも知れないけど、今回私はあくまで一般論として考えてみたい。というのもこの手の考えというものはいつだってだれに対しても起こり、そしてくり返していることなのだ。お笑い芸人、芸術家、音楽家、棋士、エトセトラ。

 で、私は上記の考えには基本的には同意するんだけど、いろいろ細かなところではっきり線引きする必要もあると思っている。アーティストとして何が許されて何がアーティストであろうが許されない領域なのかとか、だれがアーティストだといえるのかとか。

 だれがアーティストだと言えるのか問題はかんたんに言うとモーツァルトゲーテが創作を続けられたように、エルデシュが数学を続けられたように、貴族やまわりの数学者が彼らを守ったという出来事が示す通り、どちらかというとアーティスト自身を常識との摩擦から守ろうとする人たち(もしくは多数の市民)が現れている状態にいる人のことを「免罪符ありの公称アーティスト」と呼べるんじゃないかというのが大意です。その状態であれば自らアーティストを名乗る必要もないのだけれど。それ以外の人は「(免罪符なしの)自称アーティスト」とする。

 なぜなら、定義としてアーティストという肩書きそのものが「世間一般の常識から外れたことをしてもいい」免罪符になるなら、アーティストになる…というか看做されるのにある程度の審査が必要になる。だれでも名乗れるならだれでもが無法を行えるということで、これは社会としては防ぐべき状態だから。しかし現状だれもが「アーティスト」を名乗れる以上どうしても「お前が言ってるだけじゃん」「いつお前はアーティストなんだ?」と思われてしまうんですよね。「野菜買うときくらいアーティストじゃなくて一般市民として買えるだろ」とかね。

 野菜すらふつうに買えない人(エルデシュとか)は、やっぱまわりにそのひとを助ける人が現れる(現れないと死んでいく)。エルデシュの数学の才能は人類に必要だとまわりの人間が思ってるんだからこれは当然の帰結だ。エルデシュは四六時中エルデシュだったからまわりが常にサポートしたって感じだけど、でもエルデシュや学者になるよりはアーティストを名乗る方が簡単だから、アーティストだからという免罪符はほぼ無効って感じの現状になる。

 しかしそこまで特別な才能でなくても、ちょっと変な人を変なまま守るのは社会にとって大事なことだと個人的には思います。

 というのは基本的にはアーティストという人種はほかのだれもしない(できない)ような特殊な領域へと到達してその成果を持ち帰る人であって、そのような難事業を成し遂げるためにはやはり普通でない、というか普通であるという制限を外す必要があることもある。ないこともあるけど。特殊な人間がその特殊性故に特殊な作品を作るというのはとても素晴らしいことだと思うので個人的には応援したい。ただその場合、ぜったいその仕事はユニークであれ、他のだれも出来ないことであれよと思われるのは当然だ。それで誰かと似たようなものを作っていたらそのひとがそれをする必要性がなくなってしまい「才能ないからやめろ」と思われてもしかたがない。だから傍から見てそのひとの業績が「いや〜、それけっこうだれもができるようなことなんじゃないの」とか「その程度の作品ならあなただけが特別やる(ために社会が支える)必要もなくない?」と思われるとアウトなんだけど、たとえごく少数の相手でも「これはあなたじゃないと出来ないことだよ」「サポートするよ」と思わせることが出来たなら、それは素晴らしいことだしアーティストと言えると思います。まあべつに他人の認証が得られなくてもみんな勝手にやればいいと思うけどね。

ジャンキー (河出文庫)

ジャンキー (河出文庫)

 ジョージ・オーウェルが自らロンドンやパリの貧民窟へ出入りして書いた『パリ・ロンドン放浪記』やバロウズ自身の麻薬生活を描いた『ジャンキー』、アンリ・ミショーの阿片の摂取の効果をデッサンした作品など、その人の社会からの逸脱故に出来た作品が多くの人に受け入れられる(普遍性にまで達している)というのは、とはいえマジで歴史上のレアケースなんで(無名のまま死んでいった人たちが大量にいることでしょう)、誰も彼もの逸脱を許すようには社会は出来てないというのが現状ぽい。まあそもそも彼らの逸脱も社会から許されて行われたわけではなかったしジャック・ロンドンはプロ根性と言えるケースであってべつに反社会的なことをしているわけじゃないですが。なので、というかどっちかというとアーティストとしてアーティストを名乗って頑張るには「他人から何言われても私はやるんだよ」という姿勢をもって制作するのが基本である。厳しい道ですね。

 なので「○○になるような人間は普通じゃないんだから普通であることを要求するな」という意見が噴出することは歴史上もしくは様々な業界に対してけっこうあるんだけど(芸人、芸術家、棋士、作家、いろいろ)それは作品や業績としての評価に対してであるべきであって、人間性の部分は基本的には他の人間と変わらず評価されてしまうのが現状で、それは基本的には正しい(もっとマイノリティに対して寛容な社会であって欲しいとは思いますが…)。私の観察ではその「自分の普通さ、できなさ」がどうしても「社会の常識」と摩擦を起こすという人間が、どうにかその個人的な苦悩を異常な技術や発想を介在することによって普遍的な表現として消化する、それが芸術であると思うので、社会に完全に受け入れられるのも考えものだとも感じますが…これは難しい問題ですね。それを気に病んで自殺したりする人もいるわけだから。

 極端な例のフェアな認識としては、麻薬をやっても人殺ししてもアーティストとしての作品の評価には関係ない。でもその罪は社会の一員として問われるよ、ということでしょうか。そして基本的には、自称アーティストなら自分の社会生活の出来なさによって起こる摩擦は自分の作品によってねじ伏せるしかないと思います。これはかなり自称アーティスト側が不利な条件だと思いますが、ある意味では自由であるとも言える。でもデヴィッド・リンチAphex Twinエルデシュも作品も人柄もかなり特殊だけど、自分が特別なので社会はそれを認めよという姿勢ではないですね。謙虚さは持ち合わせている。

 私自身はそのような謙虚な巨人を見習って社会にちゃんと片足をつけて制作していきたいと思っています。自分の作品だって自分一人で出来ているとは私には到底思えないからです。

今日のBGM : [PV] 呂布カルマ - 俺の勝手

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 これを機に初めて聞いてみたけどブルーハーブを彷彿させるトラックと声のトーンがいいですね。他の曲も聴いてみます。見た感じわりとまじめそうな人ですね。Twitterは多数との議論にはあまり向かないてのはあるね。