紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌 : 170630 - 星の王子様についてもう一度/考え方というよりは習慣

星の王子様についてもう一度

 作業の合間に本屋へ行くとサン=テグジュペリの『Le Petit Prince(星の王子様)』の文庫が四冊あった。岩波の(内藤濯の)翻訳権が切れたので別の出版社からそれぞれ新訳版を出したものだ。何気なく読みくらべたりして、そのうちの一冊を買って帰って読んだ。

 星の王子様は小さい頃に読んで、よくわからないところとはっきりよくわかるところが混在していて不思議に思った憶えがある。かなり変な本だともいえる。大人になって読み返してもやっぱり変な本だなという印象だ。変というのは、ユニークであり、謎があり、複雑であり、単純でもあり…と言葉ではうまくいいあらわせないということである。これは宮沢賢治の作品にもいえる。星の王子様も宮沢賢治の童話もかなりの数の人がそれを読んでいるけれど、ほとんどだれもよくわかっていないというかなり不思議な存在である。まるで宮﨑駿の映画のように…というとこれは当たり前の話であって、宮﨑駿が彼らの影響を受けているのだから逆である。

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

本へのとびら――岩波少年文庫を語る (岩波新書)

 岩波新書の『本へのとびら』で宮﨑駿が岩波少年文庫を50冊紹介しているのだけれど、その一冊目が星の王子様だった。とても短い紹介文で素晴らしい文章だけれど、引用はしない。最後に「一度は読まないといけません」と書いている。

 誰かにお勧めの本を聞かれたときに、星の王子様のようなだれもが知っているような、もしくは子供のときに読んだだろうという本は率先してすすめたことはないけれど、といって読んだことある?と訊いたこともあまりない。一度は読まないといけない本。私は「これをせずに死ぬのは勿体ない」という文脈によって紹介されるものにあまり興味はないが(鑑賞すべき名画、見るべき絶景、食べるべき料理、etc...)『星の王子様』を「一度は読まないといけません」と紹介する大人がいるというところに、人間というものの豊かさを感じる。大事なものはすぐ近くにあるのだ。

汚れた本を買う

 ところで本屋で別の本も買った。以前から買おうと思っていた本を見つけて、さっと手にとったら表紙にものすごい折れ線が入っていた。むかしは欲しい本でもすでに汚れがあるとか店頭に置いてあったために焼けているといった使用感があると嫌がってその店では買わなかったけれど、最近は率先して買うようになった。他の人もそのような本をわざわざ買うのを避けそうな気もするし、となると「こいつ、行くとこあるのか?」とか思って、んじゃ私が引き受けようと。そもそもたいしたことじゃないし、自分もかなりの中古品みたいなものですし…

 しかしこれは私が本にとっての聖人君子だからとか素晴らしい考え方をしてるとかじゃなくて、ただ他人から自分に乗り移ってきた習慣のようなものである。「引き取り手のなさそうなものから引き取る」という姿勢はあるところには普通にあって、それは普通のことなのだ。スーパーで卵を買う時も、自分だけでなくてこの世界全体の無駄を減らすという視点があれば、消費期限の近いものから買うようにして早めに使えば廃棄する数を減らすことが出来る。保健所へ動物を引き取りにいく時でも器量のよくないものから引き取る。アメリカにいる時はこーいう感覚は普通に市民に具わっているように感じて(友達がさも当然のようにそうしていた)わたしはそれをただ「いいな」と思ってマネをするようになったのだと思う。

 ある考え方や姿勢というのは自分でイチから作り出すのは大変だけど、そしてそれは素晴らしいものに思えたりもするけれど、あるところではただ普通に人々に具わっている。そーいう部分を感じると一人でただ考えるってのは世界が狭いなとか人類の種としての知性は個人の能力を圧倒的に超えているなあなどと思いますね。

今日のBGM : Kazumasa Hashimoto - Echomoo

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 これもエレクトロニカ華やかりし2000年代前半に出会った曲。エレクトロニカというジャンルにおいては日本人のアーティストもかなり繊細でグッドな作品を作っていて、アメ村のタワレコでもシスコ(懐かしいですね)でも国境は全然ないって感じでそれが普通だった。