紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170915 - あなたの方が優れている

能力に立場は関係ない

 ある程度の年齢になると人はあまり変わらない。気遣いのできる細やかさや計算力や運動能力や他人に好かれる愛嬌の有る無しなどがとてつもなく変化するということはほとんどない。その人間の内面や外面にあらわれる能力のパラメータがある程度固まって、それが経年とともに多少上下するくらい。苦手なものは苦手なままで得意なものも得意なまま固定される。

 とすると、成人した大人同士では経験の差をのぞいて(それを含んでも)ある能力の差は年齢に差があっても片方が優れていればその後もずっと優れていると言える。例えば年下のAさんが年上のBさんより優れているところは(計算が速いとか)一生優れつづけているということがある。具体的に言うとAさんが20歳になったときには、AさんがAさんの親よりも、Aさんの教師よりも、Aさんの上司よりも、優れている部分は多くの領域にあって(逆もある)そのほとんどは一生変わらずAさんの方が優れつづけている。片付けが苦手な親が突然子よりも得意になることはない。何が言いたいかというと、自分がある程度の年齢になったら親とか年上の他人とか上司とか社長とか先生とか職人とかスポーツ選手とか様々な他人に対して、自分が優れている部分とそうでないとこはもうはっきりとあって、その優位性(逆も)は一生ほとんど変わらないということ。

 で、普段の生活において自分が誰かに対して「できてねえなコイツ」と思う部分は、相手が年上であっても親であっても先生であってもノーベル賞受賞者であっても、自分がただそれをできるから、要するに優れていてこそ感じることで、それはだれにでも出来る常識的なものでも万人に当たり前に具わっている能力でもない。自分がたまたま相手より優れている部分なのだ。そして自分が優れているのなら、相手に対して寛容になれる…というかなれないならば優れている意味があまり無いと私は考える。相手を見下したいなら別だけど。

 というのは、私は私の得意なこと、すいすいできることを苦労して獲得したわけではないからだ。ただなんとなくできるってことがほとんどで、その獲得にはある程度のトライアンドエラーがあったかもしれないけど、でもまあ、外部からの影響という時点で環境に作られてるし、その能力が自分にあるのは運だろと思う。自分は運良く、だれかのある部分だけと比べると自分の方が得意だったりして、相手はたぶん頑張っても一生私と同じ能力を身につけることはない。とすると、やっぱり相手に対して寛容になるべきなんじゃないのか。お腹いっぱいのものの皿から飢えたものの皿へスープを移すように。

あなたの方が優れている

 そして日常、相手に対して「出来てねえな」と思うならば自分がその点では優れていて、それは運でもあるし自分の方が恵まれているんだから、そんな相手はどんな相手であってもその部分に関しては寛容に接するべきかなとか私は考える。すべてにおいて自分より優れていたり劣っていたりする他人はいない。逆に、相手の出来ていない部分が気になる、許せないというのは、たぶん自分の方がその相手との関係性みたいなものに先入観をもっていて「○○のくせに」とか考えてしまっているんじゃないだろうか。相手のその部分だけが自分より出来ていないだけなのだとフラットに考えられたら、相手の立場とかは気にならないはずだ。

 たとえば年下の人に対して「俺もこのくらいの歳にはこれよりひどかったな」とか思って年上の人に対しては「この人はこの歳でこれなのか」とか思ってると、それって歳とか関係ない要素や能力だったりして、じつはただ年下に寛容なだけ、年上や目上に厳しいってだけの可能性があるなと思った。

 相手が成人していたら(固定しているという意味で)ある部分では圧倒的に今後永続的に私より優れている部分と、私の方が優れている部分が相手と自分の間にあると考えると、まあ理屈の上では謙虚になれるかな。敬語使うのも平気だ。相手がまだ幼い子どもだと、私の方が優れている部分はほとんどないと思う。社会化の部分だけ。経験上自分の能力とか出来不出来とかの他人との間の相対的な位置が見えてくると、他人に対してもそんなにかりかりしなくなる。自分がある程度学んで身につけたものほど、他人に対して「なんで出来ねえんだよ」と思ってしまいがちだけど、経験から学べるというのも才能というか運なんだよな。寛容にいきましょう。

ことばなきものについて少しだけ

 で、話はちょっと変わるんだけど、われわれはあまりにも言葉によってやりとり、というか理解や解釈をしてしまうから、そして中途半端に努力したり頑張った人ほど、それによって得た(と思っているもの)ものに固執してしまうから、うまく話したり感じたことを表に出せなかったりする相手に対して「コイツには感受性というものがないのか」とか見下してしまうかもしれないけど、じつはそんなことはなく、ことばなきもの(と便宜的に呼んでいる)にもちゃんと何かを感じていると私は思っている。たとえば車に轢かれて全身バキバキに骨折してかろうじてまだ生きている猫がそのまま静かに立ち上がって歩き去るとき、そこに言葉はなくとも(猫の中にも言葉はなくとも)何かを感じたり考えたりしてるはずだ。それと同じように、一緒に過ごしていて「こいつは何も感じてないのか」と思ってしまうような相手も、けしてそうではないと私は思う。

今週のBGM - Aphex Twin - Short forgotten produk trk (Mt.Fuji cassette tape 2017)

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 2017年のフジロックで販売されたAphex Twinのテープ音源の一曲がアップロードされた。やっと…テープに収録されているものの大半はモジュラーシンセノイズらしいけど、この曲はテキトーなブレイクビーツです。AFXはこーいう骨組みだけの曲がいいですね。