紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:171016 - 意味のないことをする

 わたしは一人でいる間、絵を描いたり曲を作ったり詩を書いたりする。これはほとんど意味がないことだ。意味がないというのはそこに意味を見いだす人がいないということだ。価値と言い換えてもいいのだが、とにかく意味がない。それは他人や社会にとって意味がないということだが、しかし自分にとっての意味はべつにある。その行為はわたしにとってしか意味がないだろうということを自覚している。この活動を続けるためにほとんどだれもサポートをしてくれるわけでない。ぜひその活動を続けるようにと言われるわけでもない。

 これがたとえばゴミ拾いのボランティアであるとか、所属する会社の給料計算のためのエクセルワークシートを作るとか、男女同権のための運動に参加するだとか、他人にとって意味の(価値の)あることならば、これをしたり、その活動を続けるのは容易い。快楽や満足感も(比較的)得やすいだろう。それに比べて(自分にしか)意味のないことを続けるのはどんな意味があるのだろうか。

 ひとつだけ言えるのは、それは重要なことだということだ。他人にとって意味を持たないものがあるということが重要だということだ。逆に、他人が意味や価値を見いだすものに意味や価値があるという保証がないと気づくことでもある。私は誰かほどその誰かの生まれたばかりの赤ん坊を大事には思わないだろう。しかしその赤ん坊はその親にとって大事なものだ。そこには根拠がないが、確信はある。

 ところで自分が生きていることというのは、それだけでは意味がない。みんな生きているのが当たり前だからだ。ここは生者と死者の入り乱れる世界ではない。私が生きているというだけのことにはだれも意味を見出さない。私が生きているということは、私にしか意味がないことだが、私にはその意味は最も大事な、基本的なものだ。

 私の描く絵や、私の作る音楽は、他人にとって、やはり意味がない。しかし、それは私には何より意味のあることだ。私しか意味を見出さないようなこと。それは、ただ、私が生きているというだけのことに、私自身が意味や価値を見いだすのと同じことだ。