紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:小学生と接する

 昨日の続き。

 とにかく私は今昼の仕事をしていて、昼の仕事では子どもたちと接している。だいたい小学生くらいの年代である。で、そういえば以前私はTwitterで(自称)小学生の人とやりとりをしていたことを思い出したんだけど、私は今仕事で接する彼らを「小学生だな」とか「小学生ってこんな感じなんだな」とか思いながら接してるんだけど、以前Twitterで接していた(というかやりとりしていた)人に対しては「小学生だな」とか「小学生ってこんな感じなんだな」とは思ったことがなかった。というか、今実際に仕事上接している小学生と当時小学生だったその人との接し方が全く違うということに気づいた。

 というのは相手が小学生だろうがいい年した大人であろうがディスプレイを介して乾いたテキストを投げ合って何かを伝え合うという行為において相手のパーソナリティみたいなものはとくに必要がない。たぶん性別や年齢を嘘ついててもいいし人間でなくてもいい。あるテキストに対してあるテキストが返ってきてそれによって自分の脳がキュルキュルと回ってさらに何かを考えるという楽しさがあれば相手の素性てのはどーでもいいわけだ。だから私は何かを言う時に「これは小学生にはわかるかな/わからないだろう」とか全く考えなかった。で、実際、それによって発せられる私の発言に、相手の人はまじめに応えてくれていたと思う。

 翻って今実際にナマの小学生たちと接していると、コイツらにtwitterで書いてるようなこと(過去に小学生を自称する相手にtwで言ってたこと)を伝える気には全くならない…というか、伝えることはありうるかもしれないけど、twitterで交わすような言葉遣いではしない。やっぱ別物だなと思ったわけで、で、これが、なんでだろうか?と不思議なわけです。これが本題。

 だって理屈で考えるとtwでやりとりしていた相手がマジで小学生だったなら(マジだと思う)、どこかの小学生とはtwでしてたようなやりとりができるはずでありそれが目の前の小学生でも何らの問題もないし確率的に低いというわけでもないはずである。でも実際の目の前の小学生を前にすると、こりゃ無理だろという気がする。とても不思議だ。

 不思議だけどもう寝る時間なのでまた明日…
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