紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:他の誰かに届いてしまう

 昨日の続き

 ディスプレイを介してテキストを投げ合う間柄においては相手が(実際に)なにものであるかというのは全く問題にならない。そして「つぶやく」ということはその相手すら必要でないと言える。じっさいに私はインターネットで何かを書く際に誰かに宛てて、というよりはだれにも宛てず、強いて言うなら過去の自分に向けて書いている。結果的にはそれを見るのは未来の自分なのだけれど、文章を読むであろう相手の想定は過去の自分である。今の自分よりも幼い自分が、自分によく似た人間ですでに先を生きている者の考えることを人生のヒントにするように。しかしじっさいには過去の自分は今私が書いている文章を読むことはない(ように思えるが、私は少し怪しんでいる)ことから、私は虚空や無に向けて何かを書いていると表現してもいいだろう。無に向けて書いた文章に対して誰かが反応したとしても、反応したということが肝要であってその相手がだれでどんな人間なのかというのは関係がない(過去の自分でない限り)。しかしその時点で、その相手は過去の自分のようなものだと私は思っているように思う。たぶんシンパシー。

 それをするのは昔の自分のため、だけど昔の自分はもういないので他の誰かに届いてしまう。

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