紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:他人との関係性について

今週の一曲:DAT Politics - Re-folk

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 バンド名が異常にカッコいいバンド、バンド名が異常にカッコよければ音楽はどうでもいいんだけどバンド名が異常にカッコいいバンドはだいたい曲もカッコいいという好例、ダット・ポリティクスの2002年のアルバム『Plugs Plus』(名盤)からの曲。テクノロジー的、というかハードウェア、ソフトウェア的には今(2018年)の方がいいんだろうけど(違うかもしれない)この頃の方が音がよく、曲もいい。人類や社会は線的に進化しているというのは大ウソだと言うことが2000年前後のエレクトロニカIDMを聴いているとわかる。

他人との関係性について

 他人はたくさんいるけれど、一緒にいたいと思えるような相手と出会う確率は5%くらい、相手もそう思う確率を掛けるとすべての出会いからじっさいに一緒にいるような相手との出会いは1%くらいという体感である。ということから出会いというものは奇跡に近いのだけれど、出会ったあとのお互いの関係性は明確に言語化されていないと意外に脆いもので、たとえば「あの人といったいどーいう関係なの?」という質問はまったく普通の質問のようにみなが使っているし、そこで50歳差の二人組が「いや、なんか…友達」などと答えることに対する第三者の違和感がありありとある。本人たちにもあるかもしれない。

 というのも恋人や家族、教師や友達という言語化された関係性というものは互いに一緒に居る理由のように便利に機能する側面がある反面、お互いの関係性がなにもない(明確でない)と会うことがない(会えない)ことから、人間関係はだいたい社会の常識内(思い込みや先入観)で線が引かれる。幼稚園児に教わる大学生はいないし友達関係とはだいたいが同世代間のものである、などなど。たとえば、小学校教師が小学生と一緒にいるのは「教師と生徒」という関係性が成立する状況において自然ではあるが、生徒が卒業するまたは教師が退職すると同時に二人でいることの不自然さが姿を現してしまう。元恩師、元生徒という関係性では例えば遊園地にいるのは「相応しくない」ように人は感じるだろうけれど(そこには歳の離れた友人という見方は存在しない)その二人が結婚したあとでは遊園地にいてもおかしくはない(と感じる)。逆に言えば、お互いにまったく関係はない(一緒にいる理由がない)けれど一緒にいるという状態はかなり意味不明で高度だと思うのだけれど、しかし猫や犬が相手だと一瞬で成立している。やはりそこには言語(認識)のあるなしが関係しているのだろうか?

 ところで自分はだれともあまり一緒に居られないのだという認識が寂しいという感覚の根源的なものだと思う。(ほとんどの)人と人の間の関係で重要なことは、気が合うとか話がおもしろいとか頭がいいとかセックスの相性がいいとかぜんぶウソで、ただ一緒にいる時間がどんだけあるかというだけぽい。我々にはそれしか積めないようなのだ。

 家にきた犬や猫は彼らが世界で一番私にぴったりなわけじゃなく、家にきたから彼らと一番時間をつんでいるだけであり、そしてその時間の積み重ねが他の犬猫と違って彼らと私との関係を特別なものにしている。そういう意味では相手や自分がどんな人間性なのかということよりも、関係性こそが大事だと言える。関係性によって人間関係が出来上がる。極言すると他人というものは「時間をつむ気の有る無し」の判定を下した相手であり、「ない」場合は結局全部すれ違いみたいなものであり、それが本質ぽい。たとえ「有る」場合でも、ほとんどすれ違いであることに変わりはないが…

 あるていどの大人になると他人にとっての「役割」をゲットしないと他人(社会)に利用されなくなる。「教師」や「恋人」や「運転手」や「アーティスト/ファン」というのは他人からの利用のされ方の定義でもある。そしていつかお互いに積んでいく期間が終わると(それまでの関係が終わると)会ってもとくにする事もないし、はなすこともなくなる。そのとき、もう会うことはないなと理解はするんだけど、なぜかそこに切ないなという感情があって、それはよくわからない。

 だれかとお別れする際にいつも不思議な気持ちになるのは、この関係性の終わりによってお互いの時間も終わるということによるものだと思っている。お互いは変わらなくとも関係性によって何かが変わってしまうのだ。