紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:無知と知をともにつねに持ち歩く

 「人工肛門について知ってほしいこと」という記事のタイトルが目に入ったのだけれどその記事は読んでいないし私は人工肛門についてほとんど何も知らない。SNSなどで「○○について知ってほしいこと」という文脈で目に入るものは無数にあって、寒い土地では猫が車のエンジンルームや車輪の上などにいたりするので車に乗り込む前にボンネットをバンバンたたくようにとか(本当?)、難病についてであるとか、ベビーカーや車いすを伴って外を歩くことであることとか、LGBTQ+とカテゴライズされる人々についてだとか、タトゥがあるゆえの苦労とか、都会に暮らす大変さ、そばアレルギーのひとへの注意、猫に食べさせちゃいけないもの、いくらでも無限にある。

 実際わたしが知らないことも無数にあるし、無知ゆえにだれかを傷つけたりよけいな手間ひまや無駄を増やしたりする可能性もまた無限にある。じっさいにそれをくり返して生きてきたとも言える。そのような構造の中で「○○について」一つ一つモノを知っていき、結果的に「全て知っている」という状態に至るのは不可能だ。
 もちろん知らない単語に出くわすごとに英和辞書を引くように、機会ごとに知識を増やしていくのは大事なことだと思うけれど、この世界には無限の未知があって、ひとつひとつそれを埋めていくということが必ずしも効果的であるとも思えない。結局のところ、いくら何かを声高にアピールしても啓蒙しても絶対に無知な人はつねに存在するし、そして自分の無知もつねに持ち歩くことになる。

 とすると合理的な「知」というものは、自身の未知に対する謙虚さであるとか、未知のものに対する礼儀とか、逆に無知な人間に対する親切さであるとか、知識の有る無しでないメタなところの有り様であったり、それをはぐくむような教育のほうが知識そのものよりももう一段大事なことなのだ。

 最終的にはたとえ何も知らなくてもナイスに振る舞えるみたいなのが知的ということなんじゃないか、とかわたしは家の猫を眺めていると思う。猫は何かを知っているということで威張ったり誰かを見下すようなことは絶対にしない。私も彼らを参考にしたい。

今週の一曲 Flying Lotus の All Spies

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All Spies · Flying Lotus