紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:「承認」てなんなんだ

今週の一曲:Proc Fiskal - Kontinuance

www.youtube.com
 スコットランドエジンバラ出身のProc Fiskalは21歳!2018年のリリースとは思えないくらいの00年代初期のエレクトロニカ・ヴァイブスに溢れた曲。Bleep 100で知った。いいです。

「承認」てなんなんだ

ばかの一つ覚えのように、Twitterで毎回先端音楽情報を紹介しているのがバカバカしくなった。インプレッションが5000ほどあっても、ありがとうのひとことも返ってこないTwitterって、いったいなんなんだ? S NSの背後にいるサイレント・マイノリティ、こっそり情報だけ盗みに?
9:29 PM - 16 Sep 2017
https://twitter.com/AgiYuzuru/status/909031458773254144

 阿木譲さんが亡くなってからブログ〔*1〕とTwitter*2〕をちょっとずつ、で無料で読める部分はぜんぶ読んだと思うんだけど、上記の言葉はかなり印象に残っていてその後もいろいろ考えている。阿木譲さんが亡くなったあとに何本か追悼の記事や意を表明するSNS上の書き込み、思い出などを語るブログなどを見たし、本人は生前雑誌や本を作ったりコミュニティやイベントの土台となる様な場所を作ったりしていたということで、無名であったというわけではないだろうと思うのだけれど、本人の意識や「インプレッションが5000ほどあっても、ありがとうのひとことも返ってこないTwitterって、いったいなんなんだ?」という感覚はどのようなものなのだろうか。これは意外と有名無名問わず多くの人人の感覚にも合致するものなのではないだろうか。

 おそらく根底にあるのは誰もが無料でアクセスできる情報領域(インターネット上)に有名/無名として情報を持ち寄って他人から無言の尊敬を得てもあまり割りに合わないという感覚だと思う。しかし一方で、ネット上に情報を持ち込んで得するひとややり方や情報そのものはあることはある。けど、それは限定されてたり策を弄したり文体を変えたりしないといけないとか、ほかにもたくさんの意味があると思う。基本ほら吹きが得なんだな〜というのが目に入ると、情報を持ち込んでる意識があるとやってらんねとなるとか、見目麗しい人の自撮りにワーキャーとアクセスがついたりだとか、それとまともに同じ地平に自分の情報が乗ることだとか。そこにはただ情報の提供者と受給者の間のやりとりの有る無しだけでなくて、なにかもっといろいろな要素がある気がするんだけど全く言葉にならない。

 10年以上前からTwitterはてなで見かけた人たちがいづれ本を出したりライターになったりイベントしたりしているのを見ると、やはりそっちへいくのか…それしか道はないのか…とか思ったりしてたんだけど、でもまあ時代というか多くの人々の意識や便利さはそっちへ流れているのかなという気はする。情報を発信するのであれば(情報にもよるけど)無名より実名つーかその情報の持ち主としてタグづけされた方が得、なんでひとまず多くにリーチするような情報で名を売ってほかのツイートでフィルタリング、結果残ったファンを囲うという方が今や効果的だということなのかもしれない。阿木さんは実名で有名だったのでそれだけが問題なのではないだろうけれど。

 ネット発の書籍や記事の書き手の選定も、ある特殊な技能や情報の持ち主としてピックアップされる、というよりは、まあ最初はそうかもしれないけどとりあえず小有名になった人にいろいろやらせよう(人気あるみたいだし)という力学でいまだになにかがクリエイトされている(領域が目につく)気がする。インターネットも時間が経てば経つほど情報の価値や重みづけは利用者各自バラバラにならず、中央集権になりやすいってことかもしれない。無名の人と有名な人が同じことを言ってたら当然有名な人の方がインターネット上の価値(アクセス数)を稼ぐ。情報はフラットになりえないのかもしれない。誰か一人でもいいからこの情報が届くかもしれないという希望が、それは意外にあっさり叶えられたんだけど、無名で無言の幽霊の様な一人に届いてもあまり意味がなかったみたいなことなのかな。わからん。

 とここまで考えて、いままで承認欲求ってことばわりとバカにしてたんだけど(雑に使われてるから)、「承認」の意味によってはかなり使い路のある言葉かもしれない。たぶん承認ってのは人によって非常にバラエティのある、かなり違った内実を持つ概念だからこそ雑に使われているのを見てバカにしていたところはあるんだけど、承認って実際個人にとってどのようなものなんだろうかと考えるのは大事だと思う。たぶん、ある意味で有名であり、ある人々からは尊敬も注目もされていた阿木譲さんは、Twitterやインターネット上での有り様に「承認」を感じていなかったんだと思う。と考えたときにその「承認」とはいったいなんなのか?

 うーん。社会つーか人と人って何を交換して生きてるんだろうか?

注釈

*1:阿木 譲 a perfect day | you're going to reap just what you sow https://agiyuzuru.wordpress.com/

*2:https://twitter.com/AgiYuzuru