紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

とある記事の感想とジェンダー論に対する印象について

・男の子はいかにして「男らしさの檻」に閉じ込められるのか(北村 紗衣) | 現代ビジネス | 講談社(1/4)
gendai.ismedia.jp

 この記事は上記事を読んだ感想ですが、そもそも上記事は書評であり記事内で論じられているのは著者と評者の考えが混ざっている。私は評されている本を読んでいないので「この記事だけでは」よくわからないと思う部分を書き出しています。それのあとに少し視点をあげてジェンダー論のような文章全般にたいする考えを書いています。

 著者のレイチェル・ギーゼさんはカナダ人ジャーナリストらしいですが記事内引用に

これはアメリカ的な「男らしさ」とはかけ離れた特質で、

アメリカ社会においてはマジョリティである白人ミドルクラスの男の子はそれほど学業成績の問題を抱えていない(p. 167)

 などと書かれていることからアメリカを主な舞台として書かれた文章だと認識した上でこの文章を書いています。

以下引用と印象メモ。

レッド・ツェッペリンが悪い意味で「男らしさ」にとらわれたバンドだったこと

 これは明確に定まった事実なのだろうか?

ルーピー(熱狂的なファン)に対するモラハラがひどいバンド

 これは私は知らないが事実なのかもしれない。しかしモラハラのひどさが「男らしさにとらわれていたがため」という論理がこの記事では追えない。

男であることの意味を再考し、つくり変えていくにはどうするべきか

 これは(ほとんど枝葉の言葉尻のようなものだと思うけれど)男女関係なくその時代の社会規範や環境において全ての人間が考えることであって男女問題として捉える必要はないと「私は」思う。ユニバーサルアクセスとかバリアフリーの観点ですね。自分も相手も誰であれそうであるべきというか。それによって出した個人的な答えにも絶対的な正解や根拠はない。合理性はありそうだけど。

男らしさには「身体的な攻撃性、性的な支配性、感情的にストイックで、タフで、自己制御力があること」(p. 17)などが含まれると考えられているが、こうした特質は実のところ、あまり良いものではない。

 前者二つが有害なのは納得。しかし他の三つは美点として本人が捉えていること、または第三者からも捉えられることがあるので前者二点とは別に議論するべきではないだろうか。と思うのだがこれは評者による著者の文章の引用が含まれているので原本でどのように述べられているのかにもよる。枝葉ですね。

子供たちは、こうした問題含みの性質が男らしさだということを社会的に植え付けられて育つ。

伝統的なジェンダーステレオタイプのせいで、学力不振、退学、暴力犯罪などが「男の子だから」として見過ごされたり、きちんと批判・分析されずに単に不安を煽るだけのような形で放置されたりしてきた。『ボーイズ』はこういう状況を打開する試みだ。

 ここはアメリカだとそうなのかもなあだけどこの議論をそのまま日本に持ってくることはできないと思う。あとデータなり根拠が見たいところ。私も気になる。

では、レッド・ツェッペリンみたいにならないためにはどうしたらいいのだろうか。

『ボーイズ』の基本的な立ち位置は、いわゆる「男らしさ」、とくに「有毒な男らしさ」(p. 27)の多くが「文化的創造物」(p. 28)だというものだ。

 「(有毒な)男らしさ」の定義がわからないけれど、身体的な攻撃性や性的な支配性が「有毒な男らしさ」だとしたら、アメリカの「男らしさ」は社会によっても形成され、受け継がれているということが言いたいのだろうと思う。でもレッドチェッペリンのメンバーがファンにモラハラしてたのは(してたとして)文化的創造物のせいと言い切れるのかというとよくわからない。書評と導入部(Zeppの例)のつながりの論理が追えない。

「男らしさ」は普遍的な概念ではなく、社会や時代の影響で恣意的に決められる曖昧な性質だ。この曖昧な理想像のせいで非白人やセクシュアルマイノリティの男の子は仲間外れにされるし、型にはめられて自分の能力をのばせない男の子も出てくる。

 これはその通りだと思う。逆に今善とされている価値観もほとんどの人間にとっては自らの経験や先入観なしに作り出した信念というよりはただの流行りだと思うけど。以上引用終わる。

 当該の本はアメリカという国でいかに男の子を「現代的な」人間に育てるかという目的のための分析とHow toとして書かれた本なのかなという印象。でも日本の方がこの辺は進んでると思う。自覚して解決したとかじゃなくて、ただそのような問題がアメリカほど頻繁に大規模に起こってないだけ。原因の分析は私はしてない。

 この本の筆者はアメリカの人なのでアメリカの社会問題として解釈できることを述べているのだと思うけれど、それをそのまま紹介するのは難があると思う。国や社会ってかなり独特だから、その違いや背景を理解せずに議論だけを持ってきてもそれが普遍的な事実として通用するかはわからない。科学の分野は機能するかもしれないけど。

以下は上記記事を読んで、このようなトピックについてなんとなく抽象化して思ったことなど。

 ジェンダー関連?文章(という言葉遣いでいいのかわからないが)のようなものを読んでいて、有毒な男性性という概念を持ち出す必要性があるのだろうかと不思議に思うことがある。ある行為、たとえば身体的な攻撃性や性的な支配性の悪さについては「身体的な攻撃性や性的な支配性の悪さ」を指摘することが重要な点であって、穏やかさや優しさの良さが普遍的なものであればそれは男女問わず備わるのが理想の社会だろう。有毒なものは男女問わず悪質であるならばそれはただ「悪」として指摘すればいいと思うのだが。もちろん「分析の結果、有毒な男性性が原因として考えられる」という言葉遣いも可能ではあるだろうけれど、唐突に「有毒な男性性」とポンと言われてもなんのことかわからない。
 評者も

「男らしさ」は普遍的な概念ではなく、社会や時代の影響で恣意的に決められる曖昧な性質だ

 と書いているとおり、男性性(女性性)、有毒な男性性(有毒な女性性)というものもその都度その議論の場、対象となる社会や個人によって定義しなおされるべきである。その際に男/女という言葉をわざわざ使う必要があるのかは考えていきたい。というのも男性性/女性性という言葉を使う時点で、その議論における文脈があるていど決まってしまうのだ。これは実際の問題解決という観点から見ると害があると思う。問題提起はその方法によって問題の原因の解明と解決の難易度に大きく関わるので慎重に効率的にした方がいいと私は思う。

 と書いてから、以下記事を読んで少し納得した部分がある。

「刑務所のフェミニズム教育」①~ある受刑者による講義~有毒な男らしさ~
risakoyu.hatenablog.com

「刑務所のフェミニズム教育」②~ある受刑者による講義~フェミニスト
risakoyu.hatenablog.com

 
リーチー(リッチー?)・レセダ受刑者による「カリフォルニアの男性刑務所に服役している受刑者によるフェミニズム教育のレポート」より。(以下引用は記事先による)

ギャング、強盗は、女性はしない。
 2016年
 殺人事件 男性20310人 女性1295人
 乱射事件 男性152人  女性6人
殺人するということは、男性であることと関係しているのではないか。
銃よりも男であること自体が原因なのではないか。
「男性であるべきこと」が犯罪とつながるのではないか。

Toxic Masculinity「毒性のある男らしさ」「有毒な男らしさ」。
これは、「男らしさ」が暴力犯罪を引き起こす、という考え方。
拳銃を持つこと、人を殴ることで、男らしさを示そうとする。女性を大事にするとか守るとかではない。
「男性性」というものに縛られるのはやめましょう

受刑者主導によるグループプログラムにおけるリッチー受刑者の言

ところで「男らしくしろ」と言われたことは?
全員あるね。
これは逆に考えると、女の子みたいになるな、という、女性を悪いイメージでとらえることにつながるんだ。
おれは、男らしく生きてきたおかげで、刑務所に入れられてしまった。
おれは、子供のころ泣き止まないと親に殴られた。それで心を閉ざすようになったんだ。
刑務所ではヘロイン中毒にもなった。現実から逃げたかったからだ。

 この二つの記事で引用されているリッチー受刑者の言を見ると、Toxic Masculinity(有毒な男らしさ)とは、アメリカという社会に流布する固定観念に囚われた人(ほぼ男性)が自ら当事者として気づくためのひとまずの概念という使われ方のように感じた。そのためには男という言葉をあてた方が機能しやすいだろう。これは納得。しかし説かれている物事の内容については論理的に考え解釈すれば男性性を持ち出す必要のないものばかりだ。アメリカという社会においては男らしさというラベルがついた状態で刷り込まれたものだというだけで。

 なのでやはりこの概念をそのまま留保なしで日本にも輸入して議論で使うというのは問題があると思う。もちろん日本でも社会や家庭に流布する「男らしさ」によって今でもガチガチ縛り付けられていたり犯罪を犯したりする人がたくさんいるという世界観の人は利用するのかもしれないが。私はアメリカの状況が特殊なのだと思う。

 ある疾病にしても個別に対応できないほど数が多ければはじめからいっせいに予防接種を受けさせる方が効率的だし(抽象概念化)、それほど数の少ないことであれば罹患した者が個人的に病院で治療するのが効率的だろう(個別具体的な悪事の指摘)。いづれにしてもある社会と社会の状況の違いを計る視点は必要になるだろう。

さいごに

 基本的に記事そのものは疑問点もあり、なるほどと思う部分もありでとてもたのしく読めました。私の主意は議論や概念をどこかから持ってくる際には文脈や背景に慎重になるべきだくらいですが、これは書評という字数や様々な制限もある中でのお仕事の上で書かれた文章なので、受け取る側のリテラシーの問題でもあろうと思っています。個人的にはジェンダー論には興味はあるのだけれど、目に入った議論で交わされている言葉や概念や問題の取り扱い方の妥当性などがよくわからなかったりすることが多いのですが、今回はひとまずこのような形で思うところを書いておきます。

追記分

teebeeteeさん

感情的にストイック云々の、「男だから我慢」的通念が過度の(毒性の)抑圧となりうると元記事でも書かれてるし、自殺率の男女差の推定要因の一つということで割と一般的な理解だと思うけど、納得されないだろうか。

 その理解は納得します。意図としては「抑圧になりうること」「本人にとって抑圧にならなかったとしたら本人の美質になること」と「第三者にとって明確に有毒な(男性性と捉えられる)こと」は別にするべきだということを表現したかったのです。「男らしさ」で捉えられる点のうち、明確に悪なこと(有毒なこと)とそうでないことがあることの切り分けです…があれだけだとそうは読めないですね。すいません…

anmin7さん

「ストイックでタフ」である事を強要されんの結構な地獄だと思うわ。

 どの特質も「他人から」「過度に」求められるのは(強要されるのは)害悪だという理解は私も同じです。しかし自分の良さをストイックでタフなところと捉えている人のことも「男らしさの悪いところ」と捉えるのは違うと思うということです。これも私の文章が足りませんでした。

 指摘により文章を少し書き換えました