紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:とある記事の感想について その2

gendai.ismedia.jp

またも上記記事と、その記事の語られ方について。

 昨日も上記事についての引用や感想を書いた。
saigoofy.hatenablog.com

 そののち、Twitterはてなブックマークでも上記事を起点として男女問題や子育て等様々なことについて色々なことが言われているのを見ていたのだが、この記事はレイチェル・ギーザの『ボーイズ』という本の紹介とその援用(書評?とも言い切れない…)のような体で書かれている(ように見えた)ので、その上で何かを言うに際して

① 『ボーイズ』に書かれていることの正しさの検証
② 『ボーイズ』含む様々な引用元から援用された評者の言の正しさの検証
③ それらの正しさが自分たちの社会における議論にも適応するのかの検証

 くらいはまともな議論をするには必要だと思うし、そのような指摘がないのも効率が悪いと思うのでここに書いておく。

 以下、さらにこの上記記事を読み直していた際に気づいたことなどの引用と感想。

伝統的な「男らしさ」の檻にとらわれていた(…)レッド・ツェッペリンみたいにならないためにはどうしたらいいのだろうか。そうした関心に応えてくれるのが(…)レイチェル・ギーザ『ボーイズ――男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(冨田直子訳、DU Books、2019)だ。

 と書かれているので評者はこの本を有効だと評価している…のかと思いきや微妙だ。「関心に応えて」くれても適切な問題の提起や問題の解決になっているかはわからないというくらいのことは考えて書いてはいるかもしれない。ということで保留。

「はじめに」でギーザが述べているように、男らしさには「身体的な攻撃性、性的な支配性、感情的にストイックで、タフで、自己制御力があること」(p. 17)などが含まれると考えられているが、こうした特質は実のところ、あまり良いものではない。最初のふたつは社会生活を送るにあたってはむしろ悪徳だし、後者の感情を抑えなければいけないという規範も、抑圧的になりうるものだ。

子供たちは、こうした問題含みの性質が男らしさだということを社会的に植え付けられて育つ。

 ここが難しい。「身体的な攻撃性、性的な支配性、感情的にストイックで、タフで、自己制御力があること」が男らしさに含まれるということはギーザが書いてそうなのだが「こうした特質は実のところ、あまり良いものではない。」は評者の言葉遣いである(ギーザの書き方がわからない)。「身体的な攻撃性、性的な支配性」は明らかに有害とみなせそうだが「感情的にストイックで、タフで、自己制御力があること」は過度な抑圧や強制がなければ本人にも第三者にも美徳とも解釈できる点だろう。「問題含みの性質」なのはそれこそ解釈によってそう言えるというだけなので、ここに関しては「あまり良いものではない。」という根拠がこの記事からだけでは見えない。保留。ここはまあ原本読めばわかるよだけど私はパス(図書館にあれば読むかも)。

『ボーイズ』の基本的な立ち位置は、いわゆる「男らしさ」、とくに「有毒な男らしさ」(p. 27)の多くが「文化的創造物」(p. 28)だというものだ。

 と書かれているとおり、ギーザが男たちに見出す悪さ「有毒な男らしさ」というのはギーザの属するもしくは研究する(アマゾンの部落や日本ではない)文化圏における創造物だという解釈が評者によってなされている。評者の『ボーイズ』への評価は先ほど述べた通り私には不明だ。

『ボーイズ』が提案するのは、子供ひとりひとりと向き合い、型にはめないように丁寧な教育、とくに性教育を行うことだ。さまざまな研究や教育実践が紹介されているが、ほとんどはいわば子供たちが社会から既に自然と身につけてしまった偏見を振り落とすための介入だ。

 「子供たちが社会から既に自然と身につけてしまった偏見」にはもちろんその社会ごとの違いがある。私たちの社会が彼らと同じ問題と同じ原因を有しているかはきちんと検証する必要がある。

女の子として育てられた人間にはいろいろ社会的に不利なことも起こるが、一方で暴力的、支配的であることが良いという価値観を植え付けられて大人になる機会はめったにない。穏やかさとか優しさが美徳だということを教えられる。

『ボーイズ』に書かれていることをよく考えると、男の子はこういう美徳を教育によって身につけるチャンスを奪われがちだということがわかる。これは男の子の教育にとって大きな損失だし、おそらく精神の安定にも悪い影響が及ぶ。男らしさに関する固定観念のせいで、男の子は相当な不利益を被っている。

 評者は女の子が教えられる「穏やかさとか優しさという美徳」を男の子は「教育によって身につけるチャンスを奪われがちだということがわかる。」らしい。ここで述べられている「男の子」はギーザが述べているアメリカの文化圏で育つ男の子の話だとみなすと、まあアメリカだとそうかもしれないのかなと私は思う。「男の子」が日本の子だとすると、それは言い切れないかなと私は思う。

男らしさを解体し、男の子の育て方を考え直すことは、男の子の利益につながるだろう。より自由で楽しく、精神的に安定した人生を過ごすきっかけになるかもしれないからだ。

 これは評者の言だし多くの人が口にすることでもある。「男らしさを解体」する必要があるくらい問題なのはギーザのいう社会での話なのでおそらくアメリカの子の話なのだろう。この結語も「男の子」がアメリカの子なのか、日本の子なのか、アマゾンの部落に住む子なのかを見極めることが必要である。

 結果として、評者がギーザの『ボーイズ』をどのように評価しているのか判然としないうえ、そもそもギーザの本を読んでいないひとはそこで書かれていることが正しいのかわからないという当たり前の点をおさえて、日本に住む我々にはこの記事を起点として話せることはかなり限定的なものになるのではないかというのが私の感想なのだけれど、冒頭にも書いた通りTwitterはてなブックマークでは色々な人が色々なことを言っているので私の感想をここに書いた。もちろんある事象からなにかを抽象化して何かを語るのは自由です。

 ついでに 'Toxic Masculinity' で検索してみると "factor for social issues like rape culture and gun violence" などと使われるようにレイプや銃犯罪などのアメリカでの社会問題の背景として使われている概念であるということがわかる(私の理解が足りないかもしれないが)。なのでアメリカほどレイプ犯罪多くないし、銃による問題もない日本でも、'Toxic Masculinity' を翻訳した「有毒な男らしさ」「有害な男性性」みたいな言葉を使うのなら、日本にある問題(社会問題)の背景に男らしさの影響があると解釈できる事例に使うのが最低限のモラルだと思います。そうでもないとそもそも話が通じない。私も最初「有害な男性性」とか読んでも意味がわからなかった。

個人的なことで恐縮だが、私はこの本を読んで、女で良かった…と思った。というのも、私はこの本で指摘されている伝統的かつ有毒な男性性をたっぷり備えていると思われる女性だからだ。私は非常に人間が嫌いで、所謂コミュニケーション力が欠如している。他人の感情を読み取ったり気遣ったりするのは苦手である。そのわりにケンカが大好きで、人と争うことが全く苦にならない。

 このような文化圏を超えた女性にもちゃんと備わる特質を「男性性」と名付けたり、カテゴライズするのは悪意あるというかなくとも弊害はあるとは思うなあ。

今週の一曲:Taragana Pyjarama - Ballibat

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