紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:創作意欲と言えるものは

19.10.19 / 土 / 曇り

 部屋の掃除をしたのだが終わりがけ、机の上の埃を払っていたらカップを肘で小突いてしまい、中に入っていた茶を机の下に置いていたジャコメッティの展覧会図録と大川美術館での松本竣介展の図録の上にこぼしてしまった。ふと、何か悪いことをしてバチが当たったのだろうかという考えを採用するのに合理性はあるのか、と考えたのだがよくわからない。何か悪いことは普段からとてもとてもたくさんしているので、たとえバチだとしても何が原因かわからないし、何を改めればいいのかもわからない。たとえば、何かを食べることは何かを殺すことだ。人間ではないが人間にバチを当てるような存在の持つものさしで測られると、私が他の生き物を殺すことを善いことをしているのだとはいえないのではないか。もちろん人間にバチを当てるようなことに興味を持たないような、この宇宙の摂理のようなものからすれば、人間や他の生き物が生きていようが死んでいようが殺しあったり仲良くしてようが関係ないだろうけれど。

 兎に角、ジャコメッティの図録はほとんど濡れていないが松本竣介の『町歩きの時間』は本そのものが波打つほどに濡れてしまった。さっと水を拭いて、いまは平らな場所で、その上にたくさんの辞書など重いものを置いている状態である。気に入っていたし、買ったばかりの図録なので悲しいが、しかし以前ほど心境にダメージを受けない。大事な何かが濡れてしまったり、破れたり、汚れたり、破損したりするのはしょうがないことだ。それを恐れたり、必要以上にネガティブに捉えて気分を害したりするほうが勿体無い。そちらの影響の方が自分の時間を悪くすることだからだ。結局は部屋や机の上は掃除をかけてきれいになったのだから、私の感覚の範疇では、自分にとってよいことをしたのだと思うことにする。

 「創作意欲」とあとから言い得るものは、昨日の続きの繰り返しであるという感触がしている。その意味では、毎日休まず仕事場や学校に通うことと変わりない。それをひたすら続けることはそのとき意欲とは感じにくいかもしれないが、あとから言うならばそれを意欲(創作意欲)と表現することになるということだ。

今日のBGM:Emily A. Sprague - Piano 2

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