紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:鳥も豚も食べながら

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あなたが今、なぜ生きているのかわかりません。私の娘はいないのに、こんなひどいことをした人がなぜ生きているのかわかりません。何であなたは1日3食ごはんを食べているのですか。具合が悪くなれば治療も受けられる。私の娘はもうこの世にいなくて何も出来ないのに。

他人が勝手に奪っていい命など1つもないということを伝えます。あなたはそんなこともわからないで生きてきたのですか。ご両親から教えてもらえなかったのですか。周りの誰からも教えてもらえなかったのですか。何て、かわいそうな人なんでしょう。何て、不幸な環境にいたのでしょう。

 思ったことをメモしておく。

 まずひとつ。人間は、わりと「そんなこともわからないの」と他人に言われてしまうようなことをわからないままで生きている。加害者の「誰かを殺す」という計画の中に、このご遺族の生活のことを想像する余地はおそらくなかっただろう。私だってこの記事を読むまでわからなかった。なんとなく「家族を殺されたらいやだろうな」程度の言葉は思いつく。しかしこの文章を読んで感じるようなことをこの文章を読まずして感じることはできなかった。この文章を読んだ上でわからないこともまだ無限にあるだろう。しかしこれは人間にとってどうしようもないことだ。妊娠する前に果てしなく続く子育ての苦しみや喜びは本当には知ることができないように、大学生活がどのようなものになるかもわからずに受験するように。しかしひとは行動し、行動してから想像というものの100億倍くらいの考え落としの現実が待っていることを知る。これはだれにとってもそうなるものだ。

 もうひとつ。ある社会の中で愚かとされている行いをする人は、ある意味ではハンディキャップを持っているとも解釈できるし、そうデザインされているとも言える。婚姻制度や民事裁判というものがある社会において不倫や浮気をするのは愚かな行為だと解釈できるとしてもそれをしてしまうのは、それをしてしまうからだ。それを「愚かなことだ」とか「トータル損だよな」と考えることができ、そしてそれを自制できる人はそれをしない。愚かさに捕まることはない。正しい人が正しいことを行うのを止められないように、愚かな人が愚かなことをするのも止められない。(正しい/愚かはただの定義上の概念で絶対的なものでない)

 鳥はさえずりサソリは刺す、雪は冷たくて夏は暑い。それを変えたり止めることはできない。認知症の人間が忘れてしまうことも、睡眠不足の人間が寝過ごしてしまうことも、猫が眠ることも、ハサミが切ることも、アマゾンプライムを試すをクリックしてしまうのも、そうデザインされていて抗うことはことはできないのだ…という認識に何ができるかのというと、やはり他者に怒ること、排除することよりも許すこと、受け入れることだと思う。と思うのだが、もちろん怒るのも自由だし、怒ることが間違っているとも思わない。

 「他人が勝手に奪っていい命など1つもない」これは確かにそうかもしれないけれど、くさむらに腰を下ろす時、私たちはその瞬間にふみ潰して死んでしまう昆虫や植物や微生物のことを考えない。毎日食べられるブタくんや鳥さんのことも考えない。わたしたちが日々のなかで排出したプラスチックで窒息してしまう魚のことも考えない。考えたとしても、上記のご遺族のように豚や鳥の一生を想像することはできない(してる人もいる)。この世界に生きるということ、存在するということは、自分以外のあらゆるものに対して干渉すること、生き物であれば殺したり、物質であれば消費したり利用したり変化させたりしたりすることだ。これは原子からなにから全ての「もの」が行なっているまぎれもない事実であって、これをやめることはできない。死んだ後ですら私の体は分解され再利用され世界と関わり続けるのだ。

 車に乗っていると猫やカラスが道の真ん中で死んでいたりする。彼らを轢いたのは私ではないが、道路を車がビュンビュン走っている社会の形成に私は加担している。私も毎朝車に乗ってどこかへ出かける。ある車がある動物を殺すのはくじ引きみたいなもので、動物や人間を轢く車のなかの一台が私であって、それは私の責任でもある。誰かの本でダウン症やらいの患者はなぜ存在するのかを問うものがあった。その答えは忘れたし正しいものかもわからないが、患者らは私たちの代わりに…というと言葉が悪いが、誰かがその役につく。私でなく誰かに障害や病気があったり、私でない誰かが人を殺してしまう(私もやるかもしれない)。それにしても猫を轢く車と同じように、私と無関係のことだとは思えない。まあ無関係ぽく毎日頭空っぽにマンガ読んでオナニーして寝たりしてるけど。

 自分が刑務所にいなかったり目立った障害を持ってなかったり病気によってQOLが爆下がりしてなかったりするのは(腰は痛いけど)完全運のおかげだしただのラッキー、この社会にある程度適応した趣味や嗜好を持って合法に楽しく生きているのも運。あるていど持ち合わせの道徳心で問題なく生きてきたのも私は何も努力してない。だいたい親に似ている生き物ってだけで私の個性や選択というものもほとんどないのだ。そんな存在が集まって社会を形成していても、誰かには不幸が訪れたり逆に誰かに幸運が舞い込んだりする。それは選べたり選択の余地がなかったりする。私でなく誰かに罪の意識が芽生えず(私にもないが)、私でなく誰かには道徳心のかけらもなかったりする(私もあんまりない)。

 私はもしかしたら「こんなことをした者を殺してしまいたい」と思えない程度の感情の振り幅しか知らずに死んでいくだけの人間なのかもしれない。それは寂しく内実がなく意味も価値もない一生なのかもしれない。私には全てを見通すほどの頭の良さもないし(おそらく頭の良さとは関係ないことだが)他人のこともよくわからない。何かを決断しても常に考え落としがあるし、最善や合理から程遠い行動をとったりするバリバリ不完全な存在だ。しかし不完全であるがゆえに、不完全で過ちを犯す他人を許さないといけないと思う(じゃないとそのうち自分がぶっ殺される)。しかし死はあまりにも重い問題であって、私には何一つ正しいことはわからない。本当にマジで何一つわからないから、できるだけ殺すなという。鳥も豚も食べながら、やっぱり生き物が死んだりすると悲しんだり寂しく思ったりする。鳥も豚も食べながら、他人が勝手に奪っていい命など1つもないということを知らない人でも殺してはいけないのが原則だと私はいうことにする。

 加害者には被害者とその遺族の存在が想像できなくても、そこに確かな繋がりがあったように、猫を轢く車と私の運転する車も繋がっている。シリアに落ちる爆弾も食べられるための動物も、人を殺す人や障害を持っている人も私と繋がっている。私のからだを構成する元素はかつてこの宇宙で爆発した星の塵であるように、わたしのこの一呼吸の中にかつてシーザーの吐いた空気がほんの少し含まれているように。

今週の一曲:Bullion - Blue Pedro

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話題があまりにも重い気持ちになってしまうので音楽だけでもいいものを紹介したい。2017年ベスト音楽、ベストビデオ。笑えてなぜか切なくて最高。最高の中の最高。