紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:明日のあるなし

 こないだ知り合いと話してて、その子に「もうちょい未来のことを考えて行動したらどうかしら」のようなことを言ったら「私はいつ死んでもいいと思っているからそうしない」と応じられたのでへえと思っていたのだけれど、逆に「あなたは死にたいと思ったことはないの」と問われてふと「私は自分のルールとして、自殺を含めて死ぬことは選択肢にいれないことにしている」と言った。というか言ってから気づいた。

 そのあともけっこうじっくり考えたんだけど、考えれば考えるほど死ぬことを避けている人とべつに死んでもいいやと思っているひとは、それぞれ違うルールで同じ競技(生きること)を行っていることになるということに気づいた。どうせ死ぬなら巨大な借金をしても平気、人に嘘をついても平気。そして瞬間的には死ぬことを避けている人が不利ぽいんだけど、長期的にはいつ死んでもいいやの方が不利かもしれない。乱暴に考えると死んでもいい方が振る舞いが雑になるので生きつづければ生きつづけるほど不利になっていくんじゃないかと思う。あと「生きないといけない」を基本ルールにしてる人と比べるとズルしてる気もする。だからというわけではないが、死ぬことを選択に入れるのはやめにしてる。というか「死なない」を入れとかないとなんでもありになる…というか「生きないといけない」をルールに入れておくととりあえずやることは決まる。水をのまないといけないとか、薬を買う金を稼がないといけないとか、雨風をしのがないといけないとか。ぐうたらにはそれくらいの選択の物差しがあったほうがいいんだよね。

 「死んでもいい」ルールをごく普通の日常に採用すると、なんでもありなんだけどどうせ何もしないから、私にはあまり意味がない。ただダラダラしたり、何かをサボったり、徐々に自分の生活環境が悪化していくだけのような気がする。死んでもいいと思うのは死が近い生活をわざわざする時だけでいいかなとか。たとえばスタントマンになるとか兵士になるとか、貧乏な芸術家になるとか。

 それとは別にただの考え方として、べつに兵士や人殺しにならなくても自分が一ヶ月生きるだけで相当量の他者(動物含む)を殺したり見殺しにしたりしているわけで、それは自分が生きてるから、というかすべての生き物は自分が生きるために他者を殺していて、まあいままでガンガン他者を殺して自分はぬくぬく生きてきたんだから、途中で辞めずに続けようかとか思っているのかもしれない。それと同じ理屈で、今までガンガン他者を殺してきたんだから、そろそろもういいかなも成り立つか。この辺は捉え方次第ですね。

 またはある種の物事については自分で決めないものがある、ということかもしれない。それは自分で決めていいことではなく、自分で決めたと思うのも傲慢だったり、生まれてくることみたいにじつは自分で決められるものではないような気もする。

今週の一曲:Fountains of Wayne - Stacy's Mom (Official Music Video)

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