紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:老いる

 老人、とひとくくりに言っていいのかわからんが、老いてくると身体が動かなくなったり新しい(標準とされる)知識や情報が手にはいらなかったりして、つねに最適(合理的)な選択をとりづらいようになってくる。基本的に社会というものは適した状況における適した情報を知っているひとほど損が少なくなるようにできているので、自分が満足に情報を得ていないとうすうす気づいていたら出不精になるかもしれないとか思う。
 そしてそここそが年少のものからしたら頑迷に見えたりするんだけれど、まあ私の観察の範囲では、わからない者はすっ飛ばしてガンガン進んでいくという社会のありように傷ついているってことはあるんだろうなと思う。ある程度はしょうがないとはいえども…

 私みたいにほんの少しなにかを知ったつもりでいて、それこそが根拠で、ある場面や状況では得意気になったり威張ったりしている人間が、いつか身体や興味や脳の衰えによってその時代の標準の知識や情報を持たない状態になって自分の無力を感じたりするかと思うと、いま適切に動けない人びとをどう見るか、どう接するのかは重要なことだ。その時代の標準とされている情報がセットされているかどうかによって頭がいいとか悪いとか、ある考え方がアップデートされていないから差別的だとかそうでないとか、いまふうの考えが言えるからカッコいいとかそうでないとか、そのような判断の基準であるというなら(だいたいそう見える)その部分はかなり薄っぺらでしょうもないことで、それを根拠にしてはならないと私は思う。我々が今に最適化された知識や情報を持っていて、効率的にそれらを活かすことが出来るなら、それはそれが出来ない人のためにもなされるべきではないのかとか思う。たとえ頭がよくてもその頭を使って自分のことしか考えられないならほとんど意味がないというか。まあ意味なくてもいいけど。

 ある知識や情報がある問題や状況にかちっとはまる、でその知識や情報を持ってるということが頭がいいとか今ふうだとかカッコいいと感じるとすれば、それはなんかたいしたことがないなという感じがするんだけど、具体的に実務的に生きてるとその部分しか見えないってことがある。貧すれば特に日常の実際的なところで余裕がないから、側から見るととても無駄なこと、バカなことをしている、尊敬できない人間に見えるかもしれない。しかし身体が満足に動かなくて状況を改善する情報を探す方法も知らず金もない、ただ問題を眺めながら鬱々と生きていかなくてはならない、という状態はわりとだれものすぐ側にあるし、実際にそのような状況にいるひとはかなりいるということを忘れないようにしよう、自分もそのうちの一人なのだから。

今週の一曲:Ko-Wreck Technique - Metro Dade (Plaid Mix) 1999

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 1999年のエレクトロニカ・ヒップホップ。Push Button Objectsの前身バンドKo-Wreck Techniqueの曲をThe Black Dog…の後身ことPlaid名義でリミクスした曲。いいです