紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

第5号:結婚というものの捉え方について - 2016.1.08

みんな、けっこうふつうに結婚する

 私は産まれてから30年を超えますが、驚くべきことに同い年くらいの友人はだいたい結婚している。彼らと久しぶりに会って話すと、結婚していないことについていろいろ聞かれたりする。そのたびにテキトウに答えたりするのだけど、ちょっとこの機に頭の中で考えたもののいちばん極端なバージョンをすこしここに出しておこうと思います。自分がその考え方を実際に採用しているかは別問題ですが、このような捉え方を社会のもう片方の天秤においておくと、個人のとりうる態度のグラデーションの範囲が広くなっていいのではないかと思ったので。

結婚というものを捉え直す

 私は結婚というものを、人生を共に歩んでいくパートナー選択の行為だと捉えています。そしていままでに個人的で一対一の人間関係をある程度の人数と築いてきました。そういった過去の事例を比較検討して感じることは、「この人と人生を共にするべきだ」と思えるような相手はそもそもそんなに数がいないということです。

 0~27歳くらいの間は自分というものがどんな人間なのか(世間の人間の平均と比べたときに、どんな部分が出っ張っていてどんな部分が凹んでいるのか)もわからない。どんな人を気に入りどんな人を嫌うのか、そもそも自分は他人の存在を必要としているのか、どのような部分(機能)を求めて他人が必要なのか、他人というものがどのような存在なのか、他人というものは自分の把握した通りのものなのか、自分は人生というものをどう捉えどういう風に生きていくのか、そういった様々な、しかもかなり重要なことがわからないわけです。
 自分のこともよくわからないのに自分の一生のパートナーなんて決められるわけないだろと今では思うのですが、とにかくその当時はなにもわからないなりに、とりあえず誰かと親しく付き合ったり、別れたり、独りで過ごしてみたり誰かと一緒に過ごしてみたり、そういうことをくり返していくわけです。で、その繰り返しのなかで、ふとなんとなく結婚する…ということもあり得たのかもしれませんが(あり得た)とにかくそれをしないまま、今日まで来たわけですね。
 で、現在冷静になって考えると、やはり先ほどのように思うのです。人生を共にするべきだと思えるような人間は、世間にそれほどいない。

誰とコンビを(わざわざ)組むのか?

 お釈迦様の言葉にこういうものがあります。

もしも思慮深く、聡明で、まじめに生活をしている人を伴呂として
共に歩むことができるならば ともに歩め。
それができないならば 愚かな者を道伴れとはするな
国を捨てた国王のように また林の中の象のように ひとり歩め
 
 ゴータマ・シッダールタ『法句経』

 美しい言葉ですね。ぼくはこの文章をノートの裏側に書き写していつも眺めています。というのはどうでもいいとして、お釈迦様の言うように旅の道連れ、人生の伴侶となる人は重要な存在です。おいそれと決められるものではありませんし、誰でもいいというわけでもないでしょう。
 「思慮深く、聡明で、まじめに生活をしている人」というのは、客観的な判断基準ですし、その物差しをあてた時点で「世間にそれほどいない」と言えるかもしれません。しかし先程述べた「それほどいない」というのは、このお釈迦さんの基準を満たしたとしても、個人的に考えるともっと少なくなるということです。

基準が個人的になれば結婚というものの難易度は上がる

 それではここでいう「それほどいない」とはどういう意味でしょうか?美女や美男子はそれほどいないのはそのとおりでしょう。年収が飛び抜けて高い人というのもそれほどいません。しかしそういった社会的な評価を私は言いたいわけではありません。寧ろ後述する「それほどいない」の概念と比べれば、美女や美男子、年収の高い人なんて多すぎるくらいいることになります。

 ここでひとつこの文章を読んでいるあなたに考えてみて欲しいことがあります。それは
 「あなたはいままでにどれくらいの数の他人と出会ってきたでしょうか?そしてその中に、あなたにそっくりな人と出会ったことがあるでしょうか?」ということです。

 何が言いたいかというと、あなたが明確に個人として(他の誰とも違った存在として)存在するならば、そんなあなたにぴったり合う相手も誰でもいいわけがなく、あなたの存在と同じくらい珍しい存在になるはずだということです。特殊な形状の包丁には特殊なまな板が必要になるだろうということです*1。逆に言えば、誰もが好意を持ったり一緒に過ごしたいと思うような相手が「あなたに」ぴったりの相手である可能性はほとんど有り得ない…というか多くの他人と合わせることのできるような領域で人生のパートナーを選ぶくらいならそもそもその相手は誰でもいいでしょう。あなたがこの世界で唯一オンリーワンのユニークな存在であるならばそのあなたにぴったりの相手も誰でもいいわけがなくなります。

 というわけで、まず
 (1)「自分にぴったり合う相手*2」がもの凄く数少ない激レアな存在であるということ。
 これが一つ。
 あとは短く言います(疲れた)

 (2)相手も自分をぴったりの相手だと思うかどうか
 (3)お互いにぴったりの相手であると思ったとして、そのときが一緒に生きていける状態であるかどうか(もの凄く年が離れていたり、出会ったころには誰かと結婚してたりとか、成人するまで待ってたら自分が寿命で死んだとか、戦争が始まって分断されたとか)

 と書いてきたように、自分にぴったりの相手とこの短い人生中に出会うことはそもそも奇跡的な確率であり、しかもその相手と一生をともに過ごすことができるというのはとてつもない僥倖であるということです。はっきりいってそんなことが起こると思う方がイカレている!がしかし、そう考えると、ただ結婚する、ただ恋愛するだけだったら簡単なことだけど、マジカルな領域をマジカルなままに保つというのはとても難しくて、そしてとても素敵なことだと思います*3。なので人生のパートナーというものは死ぬまでにもし出会えれば超ラッキーかな、という程度にドキドキしながら世間でいう結婚や恋愛なんてどこ吹く風、というふうに生きるのもいいのではないでしょうか。

さらに極端な例

 ではとりあえず結婚しちゃったというケースは失敗と看做すのか?そんなことは言えません。そもそもお互いの判断や感情よりも、日々の積み重ね、ずっと一緒にいたという実績が意味を持つことも確かにある。そしておそらく多くの人にとって他人と生活を共にするという経験が乏しい故に、自分たちの結婚が成功だったのか失敗だったのか判断できないという推測も可能でしょう(人生のように!)。もし一度に10人くらいと結婚生活ができれば、もしくは10回結婚出来れば比較出来るのかもしれない。そもそも「結婚する」ということと「結婚生活を続けていく」ということは全く別の領域の問題ですね。

結婚していないことについて焦る必要なんてない

 そして相手がみつからないということで焦る必要は一つもないのです。もし死ぬまでにぴったりの相手が見つからなかったとしてもそれは誰にもどうしようもないことです。相手をみつけたけど相手が自分を気に入らなかったら、それはやはり自分の相手ではないということです。相手と出会ったときにすでに相手がだれかといっしょになっていたら、それもやはり自分の相手ではないということ。自分の出来ることは自分を生きることのみです。自分にぴったりの相手ともし出会えたとすれば、それがいつであろうとどんな状況であろうと自分を受け入れてくれることでしょう。

 そんな相手と出会うまでは、思慮深く聡明に、まじめに生活をし、孤独に生きましょう。国を捨てた国王のように、林中の象のように。

寧ろ独り行くを善しとす
愚者と侶なる勿れ
独り行きて悪を為さざれ
小欲にして林中の象のごとく
 
 ゴータマ・シッダールタ『法句経』

今週の一曲

は、Actress というひとの2012年のアルバム『R.I.P.』から Jardin という曲を紹介します。
www.youtube.com
紹介して…というか聴いてもらうだけですね。
えーと、イギリスの人です。20代。
ヘッドフォンで聴くといいかもしれない。

最後に

 自分の採用している考えではないけれど、とにかく考え方が頭の中にあって、それが社会の自由度の幅を広げるなら積極的に出すべきだと私は思うのですが、そういう意見は極端なものになりがちだし、頭の中に一つの考えしか持っていない人からすれば、そういう極端な意見をいう人はそのまま極端な意見を信じている人だ、と捉えられてしまうことがありますね。
 それでは今日のラジオを終わります。

*1:もちろん普通のまな板でもできることはできるでしょうが、それをわざわざ一生の組み合わせにしようとは思わないでしょう

*2:この記事ではどんな相手が自分にぴったり合っていると看做すのか、は述べません。人というものは一緒にいる相手が変わればその場に表出する自分も変わるものです。その人と一緒にいる時の自分が好きになれるような相手がいいというのも一つの指標ですし、セックスの相性さえ合えばそれがぴったりの相手なのだという考えもいいでしょう。顔がよければいい、背が高ければいい、関西弁をしゃべればいい、etc...

*3:この記事ではあえて最も難易度の高くなる結婚というもののとらえかたを提示しています