紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

2020年4月25日の日記

 天気がいいので100年くらいまえに大阪でやったアンドレアスグルスキー展の図録をみて再訪していた。展示会場は文化不毛の地大阪の国立国際美術館。なので展覧会場はガラガラ、少数の客もどーみても普通の人でない人しかいなくて快適だった覚えがある。大阪はマジで文化死んでるんで変なことに興味ある人はほとんど少数だから変なとこ行くとガラガラなんでそーいう意味では快適なんだよな。だからボアダムスとかが(脈絡なく)ポッといきなり出てくる。とはいえそれがシーンにならずパラパラと点在するにとどまる。変な土地。
 メルツバウのライブとかでも3000円払った30人くらいの関西人が狭い部屋で呆然と突っ立って一時間ただノイズを聞いて終わりというチョンの間みたいな体験になる。こないだ友達に連れられて落語を見にいったんだけど、メルツバウのライブに似てるなと思った。目の前に出てきた人がやってることを30分間ただ見ているシンプルさ、子規模さというか。何やるのかは大体わかってるし。
 どんな業界でも人が多いと商売になる、商売になると食うために人が集まってくる、で人口の多いとこではしょうもない人でも「クリエイティブ」な仕事についたりしているんだけど、という意味では大阪みたいな文化死んでるとこでわざわざなにか変なこと(お笑い以外)をしてる人の態度はわりと好感が持てるなあと決めつけで思っている。