紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

第15回:人を殺すこと

 山から落ちたり波に呑まれたり落雷に遭ったりして死ぬのが自然なら、熊に襲われたり蛇に噛まれたり蠍に刺されたりして死んでしまうのも自然で、人と暮らしているなかで人に殺されるのも自然なことなんじゃないかな。それもどうしようもないことというか、人殺しをしてしまう人も我々の社会の自然な一部だと思う。そこには罪という概念はあるかもしれないけど(社会が拵えたから)、善悪はそこにはない。誰が生きることが善いことで、誰が生きることが悪いことなのか、誰が死ぬことが善いことで、誰が死ぬことが悪いことなのか、それは誰にも決めることが出来ない*1。

 私は人を殺さない方がなんとなくいいような気がするし、できれば人を殺したくないんだけど、人を殺そうとしたりする人や実際に人を殺した人もいる。そういう現状というか存在をどう受け入れるのか、考えるのかって難しいことだけど、どちらかが善/悪という判断は機能しない気はする。私が人を殺していないのはなぜなのか?わからない。しかしそれは自分で自分をコントロールして、人殺しをせずに済ませてきたということではない。いつの日かどうしても殺したいような相手が出来るかもしれないし、何かのおりに(車や銃の誤操作とか)ふと人を殺してしまうかもしれない。


 私は人を殺さない方がなんとなくいいような気がするし、できれば人を殺したくないんだけど、それは人に対してだけじゃなくて、出来れば動物や昆虫、植物に対しても同じように思う。私はとてつもない期間の無を経て一瞬だけ芽生えた私の意識がまた無限の無へと帰るその死という出来事がとても恐ろしいし、生きているということはかけがえのないことだとも思う。そしてそれはてんとう虫や犯罪者、オットセイやパリス・ヒルトンなどすべての生き物の立場にもいえることで、彼らをもう一度作り出すことが出来ない以上できるだけ今すでにある命を亡くしたくないと思う。しかしスーパーで豚肉を買うことは豚を殺すことに加担していることなのかもしれないし、部屋に入ってきた蚊をどうするのかはいつも迷うことだ。彼らはもう二度とこの世界に生まれでてくることはないけれども、自分はそれをあっさりと殺す(ことがある)。津波や土砂崩れなどで自然はあっさりと無感情(たぶん)に人を殺したりもする。それは自然のうねりに人がただ巻き込まれるということなのかもしれないけれど、我々人間も草むらに座るときに押しつぶす虫の命のことはあまり考えない。なぜその虫を殺したのか?と問われてもわからない。自然に振る舞っていたら殺していた。人間は人間以外のものを殺すのは自然なことだと思っているのかもしれない。
 落雷に遭って死んだら、まあカミナリを恨む人もいるかもしれないけどある種「しょうがない」って部分はある。何が自然なのかを完全に理解していなくとも、カミナリは自然に起こったことだと納得することも可能だ。でもなぜか人が人を殺すことに対しては罰や恨みや、善に対したことへの反省を求めてしまう。人が人を殺すのも自然なこととはなかなか思えないし、思いつかない。それはその社会に「人が人を殺すことは自然なことなのだ」という言説が定着していないだけなのだけど。



 自分が今日行った一つの行為、例えば家でコーヒーを飲んだこと、には、その出来事が成立する必然性(もしくはどうしようもなさ)がある。その瞬間に過去に買ったマグカップやコーヒー豆があり、コーヒーを飲むという趣味嗜好や習慣もあり、その場所に自分がいた、など「その瞬間」を構成する要素は無限に考えられる。それはすべていつの間にか自分の生活にごく自然に入り込んだ選択肢なんだけど、その選択肢を選んでいるという自覚もないまま日常的に行われてもいることだ。
 自分の生活の中ではコーヒーを飲むという選択がごく自然に行われるように、ある瞬間の自分や誰かにとっては他人を殺すという選択も行われる可能性がある。そこにもコーヒーを飲むことが成立するように無限の「なぜ」があるはずなんだけど、コーヒーを飲んだ理由がわからないように人を殺す理由もじつはわからない。それをいちおう意志や動機とか呼んで、そして怨恨や強盗など社会的に理解しやすい翻訳を試みたりはするけれど、じつはわからない。後で振り返って出来るのは解釈だけだ。

 人が人を殺すことと人が人以外のものを殺すこと、その間には社会的な意味の違いはもちろんあるけれど、本質的な違いはない。自分のわざとかなにげない行いで、他者の命が消えてしまう。それだけ。誰もが他人の命を奪い得る生き物なのだ。そしてそれはあたりまえのことなのだ。


 たとえばAとBの二人の人間がいて、お互いに相手が人殺しかもしれないと考えているとする。そーいうときにAがBに(BがAに)「私を殺さないでくださいね」なんて言ってもほとんど意味が無い。殺すつもりがないうちは殺しなんかしないし、殺すときには殺すのだ。なので「お互い、いつか相手を殺しそうになったら言おう。話し合おう」くらいが現実的なコミュニケーションだと思う。そこには「もしかしたら自分や相手は人を殺すことがあるかもしれない」という理解が必要だ。「自分や相手は人を殺したりなんかしない」という考えには根拠がないし、人を殺したりする人間とどう関係を築くかという態度もない。それは単に人殺しという存在を排除しているだけなのだ。山に登る際に「自分は遭難しないだろう」と信じて何も用意しないのと同じだ。


 他人の命を奪うことは取り返しのつかない恐ろしいことだと思うけど、それは自分とは関係のないことだと考えるのは誤りだ。人を殺す人もそうでない人も、人でない生き物もこの世界をちゃんと生きている。自分だけが生きているのではない。

今週の一曲

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Brain Feederから今年デビューしたジェイムス・ズーというベーシストのデビューアルバムが異常にいい。
そのうちの一曲です。

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それではまた来週。

*1:それでは善悪ってどこに存在するのかと考えると難しい。それは辞書にしかないんじゃないかと雑に思う。150億年前のこの宇宙の始まりにビッグバンがあった(として)ことは善いことなのか悪いことなのか?わからない。