紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

雑記:無人のブログと故人の墓

 最近は個人のブログを探して読んでいるんだけどだいたい更新されていない。更新はされていないから無人、空き家って感じなんだけど、かつてそのひとが書いた文章は沢山残されていて読める。更新してないブログは読める墓標みたいなもので、墓参りしながら読めるものを読んでるような感じ。もしくは空き家にホログラフィックな元住人が映って生活している感じか。

 ところで墓はあまりにも墓だけだからけっこうものとしてはつまらない。そこを訪ねて墓を前に静かに故人を思う時間はなかなかいいものだけれど、それのためにモノとしての墓が必要か、墓でしか作動できないスイッチなのかと問うとそうでもないだろう。てことはモノとしてはべつに墓でなくてもいいはずだ。んじゃ何がいいのか?私は人が死んで墓になるよりは人が死んで本になった方がいいと思う。死んだ人の本を読む行為は墓参りになるのか?いや墓参りの代わりにはならないが、そのひとが墓よりも本を残すような人間なら、墓参りよりも意味と交流がありそうだ。

 もし自分が何かを書いたとしたら、死後、誰かに数年に一度自分の墓を訪れられるよりも、自分の書いたものが読まれる方がいい。ほんとうはどっちでも自分には変わらないんだけど(死んでるから)。墓に行くくらいなら墓の中にいた人がどんな人だったかちょっとでも知れる方がいいよなと私は思う。

 とか書いていたらコーヒーこぼしたので墓業界の罰が当たったのかもしれない。