紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170626 - 他人に助けてもらうこと、幸せに見えること

今日のBGM : The Menzingers - "Livin' Ain't Easy" (Full Album Stream)

www.youtube.com
 後半の文章にひっかけたわけじゃないですけどこの曲。

 Only a fool would think living could be easy

 「愚か者だけが生きることなんて簡単だって考えるんだよ」と人生のままならなさを唄った歌ですね。「20代が終わった俺たちはどこへ行きゃいいんだ?」という曲で始まって上述の曲で終わる『After The Party』という今年出たアルバム(とてもいい!)に収録されています。

After the Party

After the Party

2017年6月25日放送の『ザ・ノンフィクション』見た

 ところで番組中ニートと呼ばれる人たちに対して、納税という文脈を引っ張り出してきて憎んでる人たちがTwitterでかなりの数見受けられたのは面白かった。「この人たちは税金を払っているの?」「この人たちを助けるために税金を使って欲しくない」など。おそらくこれは流行りの考え方なんだろう。流行るほどシンプルなので納得だ。しかしその理屈でいくとほとんどの人が病院も学校も公共交通機関も通信インフラも自前で建設できるほど納税していない(誰かのお金に助けてもらっている)という事実が自分にも刺さってしまうのではないか。

 もちろん税金というものはこの社会に参加するための料金ではない。勤労によって得た一定量以上の対価に付される義務であって、法人であれ個人であれ出来る人が出来るだけやるものだ。これを納めないものは国民でないというわけではない。

 そもそも各人が自身の生産したものだけで生活をするというシステムではほとんどの人が生きていけないからこそ社会というものが作られたのであって、誰しもが(自分が社会に貢献するより以上に)社会に自分を支えてもらっているのである。私たちが歩いている道路でさえ過去のどこかの時点では存在せず、過去のどこかで誰かが整備してくれたものだ。

 そのように視点をあげて考えると、そもそも人間というのはどんなひとであれいままで生きてきたすべての他人(植物やものでも)に助けてもらっているといえるのではないでしょうか。私は貨幣というシステムも発明していないし役病に対する論文も書いたこともない。車も発明してないし学校もつくっていない。雨を降らしたこともないし水道を自分の家まで引っ張ったこともない。みんな他人にやってもらって快適に生きている。過去の偉人たちの発明や、それをインフラやシステムとして広く普及させた多くの人たち、莫大な(他人の納めた)税金、それらの支援の上に私の生活が成り立っているのだ。社会に負っていない人などだれもいない。

 だからどんな人でもだいたい社会…というか人類というか地球とか宇宙まで広げてもいいんだけど、にはうけた恩は返せない。圧倒的にほとんど一方的に彼らに色々としてもらった恩を抱えたまま死ぬことになる。それは先進国に生まれたらとくにそうであって(得られるものがとても多い)、だからこそ自分たちに余裕ができた時、身の回りや遠くにいる余裕のない(もしくは私たちほど恵まれた環境にいない)他人のために少しでも何かをしようとするのかな…と私は思います。

さらに関連して思ったことなど

https://ameblo.jp/buriarashi/entry-12286882880.html
 同じく、ザ・ノンフィクションを見た人のブログの引用から

なんか表情が曇ってるんだよなぁ・・・。

私が気になったのは、彼らの表情だ。
好きなことをして生きていると言いながらも、
何か吹っ切れないというか(当然か)、
曇りがちな表情には覇気がない。

結局、彼らが意識的に避けている、
「労働」とか「社会的な行事」の時に、
いい顔をしているのだ。

 そしてこのような状態への対策としてこのブログの筆者は

打ち込めること、向上心を持って取り組むこと。
それは、仕事であるなら一番良いが、
趣味でもいい。

 と書いている。

 問題提起された部分の認識(好きなことをしている状態のはずの彼らの表情が曇りがちなこと、やその状況)が正しいのか、それが実際に問題であるのかは別として、その解決策として「打ち込める仕事や趣味」というものがでてくるのはさほど珍しい視点ではない。しかし私はこれは未解決の問題であって、かなり難しい、というかもっと細分化して分析する必要があると思っている。

 一口に「打ち込める仕事」や「打ち込める趣味」と大雑把な概念として捉えてしまうのだけれど、仕事や趣味には様々な要因がからんでくる。その仕事という概念を実行?している最中には様々な行為が含まれる。作業する机が安物だから幸せでないという細部が現れる人もいる。上司がなんとなく気に食わないという感覚が「仕事がいやだ」に内包される認識をしている人もいる。これは非常に難しい問題で、どういう問題として取り扱えばいいのかもわからない(言語的な混乱はある)。ただ、「仕事に打ち込めばいい」「趣味に没頭できればいい」というように大雑把に捉えてもわりと効果がない。それはその渦中にいる(すでに仕事や趣味に没頭できている)人が言えることであって、その状態になろうとする人にはそれ以前に無数の行為を経てその状態へたどり着くという視点が抜けているのだ。

 パブロ・ピカソが「どのように」毎日絵を描いていたのか、実際に絵を描いている時間の彼の表情はどのようなものだったのか、彼の生活をまわりの人間がどう捉えていたのか、彼のアトリエの窓の位置が変わって陽の光が入らなくなるとどう変わるだろうか、など無数の要素がそこには含まれている。ではジャコメッティの場合はどうか、ポール・セザンヌはどうか。そうして彼らの伝記を読むと、傍目には「制作(仕事)に没頭する」としか捉えられない行為にもまた無数のバリエーションがあるし、その実態は第三者にはわからない。フランシス・ベーコンのように作業後は快活に社交し、酒を飲み、健康に生きた人もいれば、人と距離を置き、酒を断つことによって初めて絵に集中できたジャクソン・ポロックのような人もいる(それが本人にとって幸せな状況だったのかは結局わからないが)。

 人生の輝き、傍目から見た「幸せそうさ加減」のようなものを得るのに何が必要なのかという問いは、「仕事や趣味に打ち込む」という(渦中にいる人からの)大雑把な捉え方でなく、じつはもっと細かく個人化と細分化を経て分析しなければわからない問題なのだと思う。