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紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

他人の死について 1

随想

www.bbc.co.uk

他人の死の受けとめ方

 テキサス州ヒューストンに住むDaniel Fleetwoodさんは熱心なスターウォーズファンであり、年内に公開される予定のスターウォーズの新エピソード『Force Awekens』を心待ちにしていたが、彼は紡錘細胞肉腫という珍しい病気で余命幾ばくもないという状態だった。そして彼のことを知った映画関係者たちの働きかけによって、完全に編集されたバージョンではないがとにかくほぼ完成に近い映画を彼のために特別に披露した。彼はその後、映画公開日の一ヶ月前に亡くなった。

 このニュースを「いい話」として受けとめてしまいがちなんだけど、その受けとめ方はよくないと思ったということを以下に書きます。

 映画がすでに(作品として見れるほどに)完成していたのはよかったと思います。彼が映画を観れたこともよかったと思います。でも生きていること、死という出来事は、見たい映画を見れるということとは比べ物にならないことで、最後に観れてよかったね、とこのニュースを知った私がパッと思ってその出来事(彼の死、彼の人生)を消費するのは短絡的な受容で、あまりにも考え無しだと思う。彼が映画を見れたことよりも彼が生きている方がいい。そもそも彼が映画を見れたことと彼が死んでしまったことは同時に天秤に載せられるようなことではないし、載せてはいけないことだ。

 ニュースというものは、もしくはすべての情報は、誰かによって編集されたもので気を抜くとその内容の受けとめ方さえも定められたままに入ってくる。今回のこのニュースでは「彼が死んでしまった」ということと「彼が死ぬ前に特別に楽しみにしていた映画が見れた」ということが一緒に述べられているけれど、それをこちらもそのまま一緒くたにして受けとめるべきではないと思うのです。それは自分の感性が他人に依って型(今回ではニュースの文法)にはめられてしまうということでもあります。このニュースはいいニュースだと言えるのかもしれないが(私は思わないが)といって彼の死を「死ぬ前に好きな映画を特別に見れた」という出来事によって「よかったね」と勝手に納得…というか消費するのは間違っていると思うのです。人の死はそういうふうに扱うべきものではないと思います。

 しかし一方で今日もいまこの瞬間も死ぬゆく人は沢山いる。他人の死や他人の人生に対して具体的にどう接するべきなのかというのはまだ私にはわかりません。考えつづけるしかない。

付記:上記のニュースとは関係のない話

・基本的にはもうすぐ死んじゃう人に特別に何かをするっていうのは賛成なんだけど、それはトイレでもうマジで漏れそうな人がいたら順番を譲るようなことで、そもそもすべての人がいづれ死ぬんだから(そしてそれがいつなのかわからないんだから)基本的にはすべての他人に親切に、真摯に公正に接するのが当たり前なのだと思う。この世界にいる人はみんな生きているから、死という属性がついてから目立つというのは避けられないのかもしれないけど、上記のニュースが報じていることを善いことだと思うならばなおさら。

・死というものを通してはじめてその人と真摯に接するのはよくないことなのだろう…とは思う。意識してもしなくても、もう死ぬまでに二度と会わないであろう知り合いは沢山いる筈で、それは実際に自分や彼らが死を前にしても、変わることはない。お互いにはもうすでに死んでいるようなものだ。

・たとえば自分がもうすぐ死ぬということがわかったとして、そのことを今まで出会ったすべての人たちも知るとする。そうしてそのうちの何人かから「特別に」「記念に」会おうと言われても、厭だな。死ぬとわかる前から自分の日常はあって、その日常は(いつくるかわからない死を念頭に置いて)自分が限りある時間を費やすべきことだと決めたことを行っている日常なわけだ。その日常で接点のなかった人と(すでにお互いの人生から退場していた人と)なぜまたわざわざ会ったり時間を使ったりしないといけないのか?と思うだろう。現日常でお互いに時間を使う気持ちがないならたとえそれは死を前にしてもない、死を前にしてわざわざ時間を使いたい相手というのは限られている。利己的だけど自分で選びたいだろう。

・やはり「いつ死ぬかは実際には誰にもわからない」という人生の基本的なルールから、だれしも自分の大事なことに時間を使うべきで、すべての他人は、お別れする時には本当にもう二度と会わないかもしれないので、親切に真摯に公正に付き合うべきですね。