紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

第16回:記憶と他人の中の自分、忘れることは死ぬこと

 長い時間だけでなく、ある期間を誰かとともに過ごしたということはかけがえのないことだと思うんだけど、なぜかけがえがないのかというとよくわからない。ちなみにかけがえを大辞林で調べてみると

【掛(け)替え】
1)いざという時の準備に用意された同種のもの。それに代わるもの。かわり。
2)〔「かけかえ」とも〕かけかえること。とりかえること
【掛け替えのない】
無くなったら、ほかのもので代えられない。「ー命」「ー人を失う」

ようするに代わりの無いものということになる。ある期間の体験そのものをかけがえのないものと呼ぶと、そもそも人生のあらゆる体験やすべての期間が掛け替えの無いものになってしまうので(人生は二周しない)ここでいう掛け替えとは記憶のことなんじゃないかと考える。カズオイシグロの新しい小説『忘れられた巨人』でも書かれていたけど(読んでないけどたぶんそーいう話だと思う)自分の頭にしかない記憶って、掛け替えがない。そして、それはほぼ存在しないものなのだということを今日は話したい。

 完全に忘れているもの(という定義も曖昧だけど)を大事に思うことは可能だろうか?たぶん無理だろう。自分にとって大事なものは自分にどれだけ定着しているかということでもある。定着というのは意識的に覚えている記憶という意味だけではなく、認識していなくても忘れていてもなんとなくそれを覚えているような行動をとってしまうこと、たとえばふとスマホを触ってしまうとかコンビニでいつもどん兵衛を買ってしまうとかそんなこと。自分にとって大事じゃないものは定着せずに忘れていく。それを覚えているのが自分一人だとさらに脆く、早く、完全に忘れてしまう。で、ここでは大事なことでも自分一人だとほとんどのことを忘れてしまうということを言いたいわけです。

 私の過去(記憶)は、私だけでなく、当時過ごした友達や家族や恋人などの「今の」存在によって、彼らの記憶、当時の記憶を持つ彼らという存在との交流によって強められる。自身の過去を指して「自分は以前こういう人間であった、こういう振る舞いをしていた、こういう出来事があった」ということを第三者が覚えている、もしくは彼らの記憶による語りによって過去の自分が補強される。そこには微妙な認識や意図のズレや出来事の齟齬があったりもするが、自分の実在は揺るがない。そして出来事や行動そのものも客観的なこととして語り得る。自転車を盗んだ意図や目的に食い違いがあっても自転車を盗んだことだけは覚えていてくれれば、自分に一貫した人格があればその意図や前後の出来事などを推理することは可能だ。自転車を盗んだことを自分しか覚えていなくて、そしてそれを忘れていれば自転車は消えてしまう。と同時に自転車を盗むような自分も消えてしまう。

 今日初めて知り合った人は私の過去の記憶、過去の存在を強めない。

 我々はなんらかの出来事や目的がなくても「ただ時間を過ごした」ということ、お互いがお互いの過去を記憶しているということはなぜか価値がある…ように感じている。それが過去から続く人間関係の要所だ。というか、そこに価値を見いだすようになってるのかもしれない。そうでないと全く知らない他人と知り合いの大事さが同じになってしまう。そこに、なぜ他人より自分の知ってる人間の方が大事なのかという問いの答えがある気がする。
 自分と他人との間に共有出来るものが全くない状態を孤独もしくは無として、「知り合い」や「知り合って過ごした時間の長さ」は孤独や無の前に足されて出来た、有限で価値のある何かだと感じる。不思議な構造だ。逆にいえばそれらをすべて失うということは孤独や無になるのか?おそらくそうなんじゃないだろうか。
 問いを変えて、友達や知り合いや家族や恋人、みんなの記憶を一回リセットしてもう一回いまから全員と出会い直すとしたら、その中には仲良くならなかったり、やっぱり仲良くなったり一緒に過ごしたりする相手もいるだろう。そして新たにやっぱり仲良くなった相手との関係性は、過去を共有している今の関係とは似ても似つかないものになるだろう。要するに記憶の有無は人格の変換ともいえるのではないか。

 知り合いの中に私は私の人格を見る。その人格は自分とその相手の間に流れたすべての記憶(時間)がつくっているものだ。相手の中にここ(自分)にいない自分が居る。自分の知っている人間が大事なのはたぶんそういうことなんだろう。相手は一緒に居た時間のぶんだけ自分なのだ。
 そしてその相手が死んだり、自分のことを忘れてしまったら、相手の中にあって、そしてその相手と対峙したときに反応して自分の中にも浸透していた、自分の今までの記憶や時間も消える。相手しか覚えていない出来事やその相手しか感じていない自分に対する印象も消える。自分のことを知っている人間が自分以外に居なかったら、自分というものを思い出したり、確認したりする機会がもの凄く減るだろう。

 小さいころ、何か不安なことがあって一人で泣いていた自分がいて、その出来事を覚えているのは自分だけだ。そしてそのこともいずれ忘れる。すると、一人で泣いていた少年はどこにも存在しなくなる。でもかつて存在したのだ。今はもうどこにも永遠に居ない。

 いままでずっと誰とも過ごさなかったら、自分の過去を思い出すのは自分だけしかいなくて、そーいうのを寂しいとか言うんじゃないかな。

今週の一曲

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Have a Nice Day!というバンドの『 blood on the mosh pit』という曲です。このバンド周辺のドキュメンタリ映画で知った。事情はよくわからないけどこの曲はいいです。

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それではまた来週。

第15回:人を殺すこと

 山から落ちたり波に呑まれたり落雷に遭ったりして死ぬのが自然なら、熊に襲われたり蛇に噛まれたり蠍に刺されたりして死んでしまうのも自然で、人と暮らしているなかで人に殺されるのも自然なことなんじゃないかな。それもどうしようもないことというか、人殺しをしてしまう人も我々の社会の自然な一部だと思う。そこには罪という概念はあるかもしれないけど(社会が拵えたから)、善悪はそこにはない。誰が生きることが善いことで、誰が生きることが悪いことなのか、誰が死ぬことが善いことで、誰が死ぬことが悪いことなのか、それは誰にも決めることが出来ない*1。

 私は人を殺さない方がなんとなくいいような気がするし、できれば人を殺したくないんだけど、人を殺そうとしたりする人や実際に人を殺した人もいる。そういう現状というか存在をどう受け入れるのか、考えるのかって難しいことだけど、どちらかが善/悪という判断は機能しない気はする。私が人を殺していないのはなぜなのか?わからない。しかしそれは自分で自分をコントロールして、人殺しをせずに済ませてきたということではない。いつの日かどうしても殺したいような相手が出来るかもしれないし、何かのおりに(車や銃の誤操作とか)ふと人を殺してしまうかもしれない。


 私は人を殺さない方がなんとなくいいような気がするし、できれば人を殺したくないんだけど、それは人に対してだけじゃなくて、出来れば動物や昆虫、植物に対しても同じように思う。私はとてつもない期間の無を経て一瞬だけ芽生えた私の意識がまた無限の無へと帰るその死という出来事がとても恐ろしいし、生きているということはかけがえのないことだとも思う。そしてそれはてんとう虫や犯罪者、オットセイやパリス・ヒルトンなどすべての生き物の立場にもいえることで、彼らをもう一度作り出すことが出来ない以上できるだけ今すでにある命を亡くしたくないと思う。しかしスーパーで豚肉を買うことは豚を殺すことに加担していることなのかもしれないし、部屋に入ってきた蚊をどうするのかはいつも迷うことだ。彼らはもう二度とこの世界に生まれでてくることはないけれども、自分はそれをあっさりと殺す(ことがある)。津波や土砂崩れなどで自然はあっさりと無感情(たぶん)に人を殺したりもする。それは自然のうねりに人がただ巻き込まれるということなのかもしれないけれど、我々人間も草むらに座るときに押しつぶす虫の命のことはあまり考えない。なぜその虫を殺したのか?と問われてもわからない。自然に振る舞っていたら殺していた。人間は人間以外のものを殺すのは自然なことだと思っているのかもしれない。
 落雷に遭って死んだら、まあカミナリを恨む人もいるかもしれないけどある種「しょうがない」って部分はある。何が自然なのかを完全に理解していなくとも、カミナリは自然に起こったことだと納得することも可能だ。でもなぜか人が人を殺すことに対しては罰や恨みや、善に対したことへの反省を求めてしまう。人が人を殺すのも自然なこととはなかなか思えないし、思いつかない。それはその社会に「人が人を殺すことは自然なことなのだ」という言説が定着していないだけなのだけど。



 自分が今日行った一つの行為、例えば家でコーヒーを飲んだこと、には、その出来事が成立する必然性(もしくはどうしようもなさ)がある。その瞬間に過去に買ったマグカップやコーヒー豆があり、コーヒーを飲むという趣味嗜好や習慣もあり、その場所に自分がいた、など「その瞬間」を構成する要素は無限に考えられる。それはすべていつの間にか自分の生活にごく自然に入り込んだ選択肢なんだけど、その選択肢を選んでいるという自覚もないまま日常的に行われてもいることだ。
 自分の生活の中ではコーヒーを飲むという選択がごく自然に行われるように、ある瞬間の自分や誰かにとっては他人を殺すという選択も行われる可能性がある。そこにもコーヒーを飲むことが成立するように無限の「なぜ」があるはずなんだけど、コーヒーを飲んだ理由がわからないように人を殺す理由もじつはわからない。それをいちおう意志や動機とか呼んで、そして怨恨や強盗など社会的に理解しやすい翻訳を試みたりはするけれど、じつはわからない。後で振り返って出来るのは解釈だけだ。

 人が人を殺すことと人が人以外のものを殺すこと、その間には社会的な意味の違いはもちろんあるけれど、本質的な違いはない。自分のわざとかなにげない行いで、他者の命が消えてしまう。それだけ。誰もが他人の命を奪い得る生き物なのだ。そしてそれはあたりまえのことなのだ。


 たとえばAとBの二人の人間がいて、お互いに相手が人殺しかもしれないと考えているとする。そーいうときにAがBに(BがAに)「私を殺さないでくださいね」なんて言ってもほとんど意味が無い。殺すつもりがないうちは殺しなんかしないし、殺すときには殺すのだ。なので「お互い、いつか相手を殺しそうになったら言おう。話し合おう」くらいが現実的なコミュニケーションだと思う。そこには「もしかしたら自分や相手は人を殺すことがあるかもしれない」という理解が必要だ。「自分や相手は人を殺したりなんかしない」という考えには根拠がないし、人を殺したりする人間とどう関係を築くかという態度もない。それは単に人殺しという存在を排除しているだけなのだ。山に登る際に「自分は遭難しないだろう」と信じて何も用意しないのと同じだ。


 他人の命を奪うことは取り返しのつかない恐ろしいことだと思うけど、それは自分とは関係のないことだと考えるのは誤りだ。人を殺す人もそうでない人も、人でない生き物もこの世界をちゃんと生きている。自分だけが生きているのではない。

今週の一曲

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Brain Feederから今年デビューしたジェイムス・ズーというベーシストのデビューアルバムが異常にいい。
そのうちの一曲です。

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それではまた来週。

*1:それでは善悪ってどこに存在するのかと考えると難しい。それは辞書にしかないんじゃないかと雑に思う。150億年前のこの宇宙の始まりにビッグバンがあった(として)ことは善いことなのか悪いことなのか?わからない。

第13回:好き、楽しい、という感覚(前半戦)

 久しぶりにあった友達や初めて会った人とでも、話す際には普段は何をしているのかを問うたり問われたりする。これは会話の基本的な形式なので、それについて何か思うことはないのだけど(あるけど)それにどう答えるのかはいつも考える。私は普段何をしているのか?なかなか難しい問題だ…というかあまり覚えていない…
 そしてしばらく考えて
「ヒマなときには絵を描くか、見るか、音楽を聴くか、音楽をパソコンで自分で作るか、しています」
 などと答える。昔からの友達は美大に通っていた頃に知り合った人が多いので「コイツは相変わらずだな」と理解してもらえるんだけど、そうでない人*1は普段ヒマなときに絵を描いたり音楽を作ったりすることは「なにか特別なこと」のように捉えているフシがあって「音楽を作ったり絵を描いたりすることが好きなんだな」といった理解というか言葉によって納得される。
 「何かをすることが好き」ということと「それをすることは楽しい」ということはだいたいセットになって理解されているし、自分もそういう言葉遣いをしてしまうんだけど、だんだんその言葉と実際に感じている感覚にズレが出来てきている、ということを今日は話したい。

 「音楽を作ったり絵を描いたりすることが好き」な人は「音楽を作ったり絵を描いたりするのは楽しいことだ」と感じているという理解がそこにはあるような気がする…というかそう解釈しても変ではない、ですよね?そこには

「楽しいことだから自分からするんだろう」
「わざわざしなくていいことで、しかも嫌いなことならわざわざしないだろう」
「それをわざわざするってことはそれをすることが好きなんだろう。楽しいんだろう」

 という基本的な理路がある。もちろん嫌いなことでもしなければならないこと(仕事とか)や、すすんではしたくないけどしないままに放置するよりはした方がマシ、もしくは習慣となっていること(掃除とか墓参りとか厭になってきた相手とのセックスとか)などの存在も各自理解しているはずなんだけど、音楽を作ったり絵を描いたりすることは「自主的に」行われる(そこにはモチベーションのある)行為として捉えられる。
 ここで言いたいのはそれらの行為の違い(掃除や墓参りと自主的に作品を制作することの違い)についてではなく、その行為に対しての感覚が変わること、どこかの時点で感じていた「楽しい」「好きだ」という感覚やモチベーションはどこかの時点で何かよくわからないものに変化して、そして行為だけがそのまま残っているということです。

 以前に絵を描いたり音楽を作ったりしていたときに感じていた「楽しい」「それをするのが好きだ」という感覚は、時を経るにつれどんどん消えてなくなっていく*2。そして楽しくない(相対的に苦痛になっていく)行為とその習慣だけがなぜか残る。現在はそんな状態になっている。

 これは「その行為すなわち即楽しい」という時点からその行為が始まっているので(絵を描くのは即楽しい、音楽を聴く/作るのは即楽しい)その差異は著しい。不思議なことに、それをしてももうたいして楽しくないのにも関わらず「楽しい/好きになれることという物差し」を当てて、新しいもの(絵や音楽)を探したりする。
 要するに、ヒマなときに「何か楽しいことをしよう」「自分を楽しませよう」という考え方/姿勢が自分に根付いていて、そして以前楽しかったこと、「絵を見たり描いたり」「音楽を探したり作ったり」をする。しかしその行為はもうさっぱり楽しくない、ということが起こる。端的に言うと「自分はもう何に対しても楽しいとは感じないのに、楽しいことを求める姿勢はなかなか変わらない」。

 これはおそらく、楽しいからそれをするという段階はわりと早い時点で過ぎちゃって、その後はしなきゃならないからする、なぜかよくわからないがする、などいろんな姿勢に移るんだけど、言葉遣い(頭の中での言葉遣いは即考えなので、考え方)は意識しないとそれほど柔軟に変化しないので以前からの言葉遣い「何か楽しいことないかな」でものごとを考えたり捉えたりしてしまうからだと思われる。
 たぶんイチローはもう「野球は楽しい」という言葉遣いや認識はしないと思うんだけど、もししたとしてもその「楽しい」は彼が初めて野球をした頃の感覚とは全く違っている。しかし同じ言葉を一応あてているという状態になるだろう。

 となるとこれは言葉や会話の形式によって考え方が限定されるという話にもなるのだけど、(「最近はどんな楽しくないことをしているの?」という会話したことあります?)我々は楽しいことをする/し続けるのは自然で、楽しくもないことをしつづけるのはなんか変だと考えてしまう。そして楽しくないという言葉をあてていることは、やはりしたくないままなのである。
 で、なんとかこの「楽しくないけどしなきゃならん」「楽しくはないけどする」という考え方に徐々に移行しているのが今の自分の状態なんですね*3。そう、もう自分で自主的にやってることでも楽しいことはないのだ。絵を描くのも音楽を作るのも楽しくない。苦痛だ。でもまだそれをしている。楽しくなくなってそれをしなくなった人との間には何か違いはあるのだろうか?それはちょっとわからないけど…

 とにかく、絵を描くのも音楽を作るのももうさっぱり楽しくない。どちらかというと苦痛だ。だから出来るだけそれをしないで済むように生活してしまう。だがそれ(絵を描いたり音楽を作ったり)をしないと一日が終わらない。
 この「一日が終わらない」という感覚がなにかとても核心をついているという自覚はあって、よくわからないけどこの感覚のせいで続けている。
 後半戦はこの「一日が終わらない」という感覚と、さらに細かな「楽しい/好き」と感じる瞬間について書きたい。

ということで今週は以上です。

今週の一曲

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ぼくはわりとこーいうノスタルジックな映像と曲調のヒップホップが好きですね。

それではまた来週。

*1:もしくは学校を卒業して、音楽や絵や自分の作品を作るのを止めた友達も

*2:そういう変化に対して「飽きる」という言葉も用意されているのだけれど、その言葉はうまくあてはまらない

*3:たぶんこれ、子供が出来たり配偶者が出来たりしたら鍛えられやすい考え方の形式なんだと思うけど、私はどちらもないのでそこが未熟なんだろうと思う