紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:170625 - 所有すること、何かが何かとつながっている

今日のBGM : Green Day Insomniac Album (1995)

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 これもなつかしいアルバム。ところでグリーンデイも活動歴が長いので多くのアルバムが出ている。むちゃくちゃ売れた(メジャー)デビューアルバムの『Dookie』(wikipediaによると2000万枚)と7枚目の『Amerikan Idiot』(1400万枚!)は別格としてもアルバムほとんどが100万枚以上売れている。スタジオアルバムだけで16枚ある。

 で、冒頭に紹介した『Insomniac』なんだけど、これも600万枚売れていますが、ともあれ恐らくグリーンデイで一枚を選べと言われれば、まあ『Dookie』になるんじゃないでしょうか。でも私は『Dookie』よりも先にこの『Insomniac』を聴いて初めてグリーンデイを知ったので、このアルバムが一番好きです。『Insomniac』のあとにだれもが名盤と言う『Dookie』を聴いてみたら(姉ちゃんが持っていた)「ほとんどInsomniacと変わらねえじゃん」という感想だった。当たり前というか何というか、今思うとものごとへの評価というのはとても難しいということがわかりますね。

 そりゃ今の若い人たちが『AKIRA』を読んでも『トレインスポッティング』を観てもAphex twinを聴いてもあまりピンと来ない(何がすごいんだ?)というのはよくわかります。歴史感覚の欠如というものは従来の偏見を消すと同時に、逆方向への偏見を産み出すこともあるということですね。

作業日誌

 きょうもまた色えんぴつの練習。色えんぴつでデッサンなどいろいろ試す。そういえば美大の学生時代にもやったなとかアメリカのカレッジに通っていた際にとった美術の授業でも色えんぴつでデッサンしたなとか思い出していた。あの絵はちょっと見てみたいけど、カレッジの美術館に寄贈して帰ってきたのだった。行動は記憶の想起のスイッチですね。

 ところで人体デッサンをしていて、自分でふとひいた肩甲骨の線が、女性の腋の下の線と繋がるということに線をひいている瞬間に気づいて、そしてそのとおりの線をひけた。肩甲骨と腋の下が繋がって、そしてとてもきれいなかたちがとれた。

 これは絵を描いていて至上の快感であると同時に、なぜかなにかの「真実らしさ」に自分が触れたという感覚も同時にある。これはなんなのだろう?本を読んで勉強したことでも技術的なことでも日常的なことでも自然科学の情報でもこれを感じる。量子論と宇宙物理学、哲学や数学、詩とデッサン、似たモノや遠いモノでも何かが繋がったと感じることがあって、これは「善きこと」「正しそうなこと」と感じる。とても不思議だ。べつにその感覚が正しいとは限らないんだけど。

 人間の脳の構成物でもあるシナプスの構造と関係があるのだろうか?シナプスも違う概念同士の間に道をつくる。この人生は自分でこの世界というカオスから何か秩序を見つけ出すためのものなのだろうか?

所有すること、愛すること

 冒頭の、自分の中でのグリーンデイの最高のアルバムのように、そのものを愛するようになったり自分の中でそれを特別だと感じるようになるというのに一つ大きな影響があるのは「所有」という概念だろう。いや「所有」という概念そのものが重要なのではなく、それを「所有」することによってそれに自分の時間を費やしやすくなるということである。持っていないものよりも持っているものに、人のものよりも自分のものに接しやすいのは当たり前の話だ。あれが「欲しい」という感覚もありますね。欲望と名がついている。

 『星の王子様』でも

 心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。
 かんじんなことは、目に見えないんだよ」
 
「かんじんなことは、目には見えない」 と、
 王子さまは、忘れないようにくりかえしました。
 
「あんたが、あんたのバラの花をとてもたいせつに思ってるのはね、
 そのバラの花のために、ひまつぶししたからだよ」

 というプリンスとキツネのやりとりがある。「ひまつぶしした」というのはどうもカタい訳だけど、言い換えると「それに時間を使った/一緒にいた」というような意味でしょう。

 100年後には笑われる感覚かもしれないけど、いまのところギリ、「所有する」というのはそれに時間をかけるということでもあって、それを「実際に」大事にするということと繋がっていた時代がかつてあったのだ…と100年後にはなるのでしょうか。

星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま―オリジナル版

作業日誌:170622 - もし俺がダメになったら

今日のBGM : Fall Back Down - Rancid [Official Music Video]

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 RANCIDのライブでもだいたいアンコールで演奏される(これを聴かないと客がかえらない)曲。fall back downというのはぶっ倒れたときとかダメになったときみたいな意味で、歌のトーンとしては「そんなときには女は手をかしてくれねえよ、でも友達はお前を助けてくれるだろ」みたいな友情ぽい歌です。

 アメリカのパンクバンド(だけじゃないけど)に顕著なというか伝統に「俺は売れて浮かれてドープやって酒も飲んでアホなことばかりしてたらそのうちまわりには誰もいなくなっちまったよでも俺はまだここに立っているよ歌」というものがある。だいたい依存症になって問題を起こしてリハブへ行ってまた復活してこーいう歌を唄ったりね。

 そーいう曲がウケるという背景にはやはりアメリカの薬物や依存症問題というのは市民にも根深い問題なんじゃないかと思うんだけど、そういえば日本でも違法薬物などで事件を起こした芸能人のひとにも、たとえばバンドをやっている田中聖くんとか押尾学くんとか歌手だった酒井法子さんもこーいう歌を唄えばいいんじゃないだろうかとか思う。

 映画を見て泣いてるから心がきれいというわけではないように(涙は目にソフトボールが当たっても出る)違法薬物もそれをやってるから悪人、悪人だからやるという解釈(はっきり言って偏見)は不十分であって、そこはもっと市民の理解が必要なところだと思う。まあ最初っからそーいうものに手を出さずにすんでる人が大半とはいえ、それがあるところにはあるという状況や中毒者の実態を理解するというか。

 (社会的に)愚かな行為、間違ったことをしてしまう/してしまった人に対して寛容な社会のほうが私は合理的だと思う。寛容であるためにはそのことについて無知ではいけないんだけど。

作業日誌

 今日は昨日の続き。主に色えんぴつでものを描いた。色えんぴつは三年前くらいに入院したときにもらったモノで描き始めたんだけどいまだにうまくならない。でも三年前よりは上達した…というか使い方がわかってきたという感じ。ゾンネンシュタイン(
Friedrich Schröder-Sonnenstern - Google 検索
)とか色えんぴつですごい絵を描いているので画集をちらちら見たりする。ニューヨーカーなど有名な雑誌でさし絵を描いてるYann Kebbi(
Dessin 1 - Yann Kebbi
)もソール・スタインバーグ直系って感じの画風で、彼も色えんぴつでいい絵を描いているので好きですね。

ゾンネンシュタイン
https://farm4.staticflickr.com/3947/15717065095_64a4e6b0b8_o.jpg

Yann Kebbi
http://payload403.cargocollective.com/1/18/604750/10374799/dessin-1_800.jpg

作業日誌 : 170621 - 黄金時代 〜 マリオがスターをとったとき

今日のBGM : This time i know it's for real - Donna summer

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 ギリ80'sなんで当然なんだけど出だしのトボケたシンセがファンタジーゾーンみたいでいいですね。私はボーカルない方が好きです。

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 ファンタジーゾーンも良BGMゲームとして知られているみたいですけど、私はアーケードやメガドライブよりもNES版、日本で言うファミコン版の音が好きですね。なんか機材の音がナマでぶちあたってくる感じと、メインの旋律の音色のトボケた感じが。

作業日誌

 あまりうまくいかなかった作品の手入れ。こうして別ものになっていく。出来のよくないものには躊躇なく手を入れることができる。たとえ途中でも出来のいいものは中途半端に大事にしてしまうあまり、そこからものすごくいいものになることはない。作品に対してビビっているといっていい。多くの芸術家の話を聞いているとこの心理はどんな人にもあるらしい。だからこそ新しいことに挑戦すること、怖がらずに手を入れること、すでにあるものを破壊して次へ行こうとすることの価値は変わらずあるのかもしれない。

 あまり大事じゃないものは乱暴に扱えるのでかえってそれと接する時間が長くなりある意味では気に入っているといえる、という状態は日常でもある。大事な服よりもどうでもいい服の方が何度も着ていたり、大事な相手よりも…とこれはよくない表現になるのでやめときましょう。

歳をとって崩れるということ

 抽象的に話すけれど、現在20代で、いつか30代になっても崩れない人を見つけるよりも30代で現に崩れてない人を探すほうが簡単だなと周りを見て思う…べつに40代でも50代でもいい話だけど。

 というのは一般論として、若さというものは全ての難を隠している状態、マリオならスターとって光ってる状態なんで、未来を見定めるのは難しい。その輝きを失ってから判断するほうがわかりやすいということです。それがまあ30代頃からの話なんじゃないかと。年をとって崩れるというのは突発的な、たとえば交通事故にあうとかそーいうことでなくて(ないこともないと思うけど)、傾向としての結果なので、よーするにボーリングの球を投げる瞬間の微妙なズレがのちのちに響いてくるというようなことなので、時間が経たないと見えてこないし、見えてきてから気づいてもそっから簡単に修正が効くというものではないぽい。

 んじゃ自分はどうなのか、崩れないように何かをしているのかと問われると難しい。崩れないために何かをするというのは誤った考え方で、何かをする、何かをちゃんと守るということが結果的に自分を崩さないということに部分的に繋がっているのではないかと思うのだけど…

 いやそもそも崩れないのがいいこととかそういうことでなくて、若さというものは本当にすべての難を隠しているモノなんだなとあらためて感じたということですね。私はよく若い頃に若くて美人の人と会うと素敵だなと思うと同時に「もし自分の目が見えなかったとしてもこの人を好ましく思うだろうか?」と考えたものです。なんか話がズレた気がするな。