紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:171019 - 上達しない

 なぜいつまでたっても満足のいく絵がかけないのだろう?うまくいかないのだろう?といつも思うんだけど、それについてメモ。

 他のことはだいたい出来るのに、絵を描くことが一番うまくいかない→自分は絵を描くことに向いていない(絵を描くのが一番苦手)or 絵を描くことは異常に難しいこと、のどっちかなのか?とふと思ったんだけど、まあどちらかと断言出来るようにはなってないぽい。というよりも、逆にいままで自分ができてきたことというのは「この程度出来ればいい」といった基準のようなものがある。料理はまあ食べられたらオッケー(栄養のバランスよく献立を組み立てられたらサイコー)試験も合格すればいい、仕事もクビにならず効率的にこなせればいい。人付き合いも殺されなかったらいい。

 そーいうほとんどのことは(みんなやってることは)みんな出来ることで、だいたいのみんなが出来るあたりに満足線というか、それでうまく継続してまわるように出来ている。超雑な思いつきだけど。

 でも絵(他の創作活動も)というのは、「出来た」「うまくいった」と判断するのは自分だけなので正解がない。決して満足できない。それが世界で一番難しいことのように感じる理由なのではないかと。技術がいくらあがっても、そーいう問題では解決出来ない抽象的で何かよくわからない領域が絶対に残る感じ。クリシェで言うと「答えの無いもの」を探しつづけるとか、そーいうことになっちゃうんだけど、そこには「上達」という概念はあまり機能しない特別な領域があるぽい。それは個人的な作業になればなる程あるぽい。

 自分の作ったものについて、それを作ることについて、永遠にうまくなってない気がする、全く上達していない気がする、というのが正直な感想なんだけど、まあそういうものかもしれない。北斎もずっと「いつまでたっても絵がうまくならん。100歳になる頃にはちょっとマシになってるだろうか」みたいなこと言ってたし。

 でもまあ絵はうまいとかじゃなくて、とにかくどうやっても満足しないものって感じがするな。満足することに対する上達もない。

 それはとにかく自分がとてつもなく下手だからだ、というのは当然前提にはあるんだけど。永遠に下手のままやり続けることが決定しているみたいな感じかな。超越的なものについては絶対に解明もできないし考えることも出来ないんだけど考え続けないといけない哲学と似てるな。

 「どんな芸術においても いちばん大切なのは 芸術家が自分の限界といかに戦ったか、ということだ。」とソール・スタインバーグも仰っていて、確かポール・グレアムだと思うけど “素晴らしいランナーがフルマラソン中に「自分ではかなり優秀な選手だと思うんだけど、どうしてこんなにしんどいんだろう?」と思うようなものだ。”とも言っていた。まあ限界に挑戦することは誰にとっても永遠にしんどいことで、それが正しい目安なんだろう。

 でもピカソの画集とか見たら「…こいつだけはもしかしたら唯一の例外でマジでサラッと描けてるんじゃないだろうか?苦悩ある?」とか思う。あまりにも上手な技術には苦悩や奮闘のあとがさっぱりきれいにないから…。ジャコメッティは苦悩の跡しかカンバスに載ってない。
でもまあピカソは自分では「絵を壊す」って言葉で表現するんだけど、やっぱりそれは絵の中に現れた失敗にどう対処するかであったり、もしくは以前うまくいったとこをわざとハズすとか、まあ当然挑戦や苦闘はあるでしょう。当たり前だ。でもその跡があまり残らないのは凄いね。だからもしかしたら、いつまでたっても満足出来ないものを続けるのはいいのかもしれない。何がいいのかは今は言えないけど。

 他人にわかってもらう必要のないものが自分の中にちゃんとあるっていうのは強いよ。

 私は変な生き方というか個人的/個性的な生き方をした人の本を読むのが趣味でそーいうのを集めてるんだけど、そーいう人たちの本を読むと(脚色されているとは言え)励まされていいです。「自由」というものの範囲をちょっと広くしてくれる。

 まとまらないけど今日はこれで終わります。

作業日誌:171016 - 意味のないことをする

 わたしは一人でいる間、絵を描いたり曲を作ったり詩を書いたりする。これはほとんど意味がないことだ。意味がないというのはそこに意味を見いだす人がいないということだ。価値と言い換えてもいいのだが、とにかく意味がない。それは他人や社会にとって意味がないということだが、しかし自分にとっての意味はべつにある。その行為はわたしにとってしか意味がないだろうということを自覚している。この活動を続けるためにほとんどだれもサポートをしてくれるわけでない。ぜひその活動を続けるようにと言われるわけでもない。

 これがたとえばゴミ拾いのボランティアであるとか、所属する会社の給料計算のためのエクセルワークシートを作るとか、男女同権のための運動に参加するだとか、他人にとって意味の(価値の)あることならば、これをしたり、その活動を続けるのは容易い。快楽や満足感も(比較的)得やすいだろう。それに比べて(自分にしか)意味のないことを続けるのはどんな意味があるのだろうか。

 ひとつだけ言えるのは、それは重要なことだということだ。他人にとって意味を持たないものがあるということが重要だということだ。逆に、他人が意味や価値を見いだすものに意味や価値があるという保証がないと気づくことでもある。私は誰かほどその誰かの生まれたばかりの赤ん坊を大事には思わないだろう。しかしその赤ん坊はその親にとって大事なものだ。そこには根拠がないが、確信はある。

 ところで自分が生きていることというのは、それだけでは意味がない。みんな生きているのが当たり前だからだ。ここは生者と死者の入り乱れる世界ではない。私が生きているというだけのことにはだれも意味を見出さない。私が生きているということは、私にしか意味がないことだが、私にはその意味は最も大事な、基本的なものだ。

 私の描く絵や、私の作る音楽は、他人にとって、やはり意味がない。しかし、それは私には何より意味のあることだ。私しか意味を見出さないようなこと。それは、ただ、私が生きているというだけのことに、私自身が意味や価値を見いだすのと同じことだ。

作業日誌:170915 - あなたの方が優れている

能力に立場は関係ない

 ある程度の年齢になると人はあまり変わらない。気遣いのできる細やかさや計算力や運動能力や他人に好かれる愛嬌の有る無しなどがとてつもなく変化するということはほとんどない。その人間の内面や外面にあらわれる能力のパラメータがある程度固まって、それが経年とともに多少上下するくらい。苦手なものは苦手なままで得意なものも得意なまま固定される。

 とすると、成人した大人同士では経験の差をのぞいて(それを含んでも)ある能力の差は年齢に差があっても片方が優れていればその後もずっと優れていると言える。例えば年下のAさんが年上のBさんより優れているところは(計算が速いとか)一生優れつづけているということがある。具体的に言うとAさんが20歳になったときには、AさんがAさんの親よりも、Aさんの教師よりも、Aさんの上司よりも、優れている部分は多くの領域にあって(逆もある)そのほとんどは一生変わらずAさんの方が優れつづけている。片付けが苦手な親が突然子よりも得意になることはない。何が言いたいかというと、自分がある程度の年齢になったら親とか年上の他人とか上司とか社長とか先生とか職人とかスポーツ選手とか様々な他人に対して、自分が優れている部分とそうでないとこはもうはっきりとあって、その優位性(逆も)は一生ほとんど変わらないということ。

 で、普段の生活において自分が誰かに対して「できてねえなコイツ」と思う部分は、相手が年上であっても親であっても先生であってもノーベル賞受賞者であっても、自分がただそれをできるから、要するに優れていてこそ感じることで、それはだれにでも出来る常識的なものでも万人に当たり前に具わっている能力でもない。自分がたまたま相手より優れている部分なのだ。そして自分が優れているのなら、相手に対して寛容になれる…というかなれないならば優れている意味があまり無いと私は考える。相手を見下したいなら別だけど。

 というのは、私は私の得意なこと、すいすいできることを苦労して獲得したわけではないからだ。ただなんとなくできるってことがほとんどで、その獲得にはある程度のトライアンドエラーがあったかもしれないけど、でもまあ、外部からの影響という時点で環境に作られてるし、その能力が自分にあるのは運だろと思う。自分は運良く、だれかのある部分だけと比べると自分の方が得意だったりして、相手はたぶん頑張っても一生私と同じ能力を身につけることはない。とすると、やっぱり相手に対して寛容になるべきなんじゃないのか。お腹いっぱいのものの皿から飢えたものの皿へスープを移すように。

あなたの方が優れている

 そして日常、相手に対して「出来てねえな」と思うならば自分がその点では優れていて、それは運でもあるし自分の方が恵まれているんだから、そんな相手はどんな相手であってもその部分に関しては寛容に接するべきかなとか私は考える。すべてにおいて自分より優れていたり劣っていたりする他人はいない。逆に、相手の出来ていない部分が気になる、許せないというのは、たぶん自分の方がその相手との関係性みたいなものに先入観をもっていて「○○のくせに」とか考えてしまっているんじゃないだろうか。相手のその部分だけが自分より出来ていないだけなのだとフラットに考えられたら、相手の立場とかは気にならないはずだ。

 たとえば年下の人に対して「俺もこのくらいの歳にはこれよりひどかったな」とか思って年上の人に対しては「この人はこの歳でこれなのか」とか思ってると、それって歳とか関係ない要素や能力だったりして、じつはただ年下に寛容なだけ、年上や目上に厳しいってだけの可能性があるなと思った。

 相手が成人していたら(固定しているという意味で)ある部分では圧倒的に今後永続的に私より優れている部分と、私の方が優れている部分が相手と自分の間にあると考えると、まあ理屈の上では謙虚になれるかな。敬語使うのも平気だ。相手がまだ幼い子どもだと、私の方が優れている部分はほとんどないと思う。社会化の部分だけ。経験上自分の能力とか出来不出来とかの他人との間の相対的な位置が見えてくると、他人に対してもそんなにかりかりしなくなる。自分がある程度学んで身につけたものほど、他人に対して「なんで出来ねえんだよ」と思ってしまいがちだけど、経験から学べるというのも才能というか運なんだよな。寛容にいきましょう。

ことばなきものについて少しだけ

 で、話はちょっと変わるんだけど、われわれはあまりにも言葉によってやりとり、というか理解や解釈をしてしまうから、そして中途半端に努力したり頑張った人ほど、それによって得た(と思っているもの)ものに固執してしまうから、うまく話したり感じたことを表に出せなかったりする相手に対して「コイツには感受性というものがないのか」とか見下してしまうかもしれないけど、じつはそんなことはなく、ことばなきもの(と便宜的に呼んでいる)にもちゃんと何かを感じていると私は思っている。たとえば車に轢かれて全身バキバキに骨折してかろうじてまだ生きている猫がそのまま静かに立ち上がって歩き去るとき、そこに言葉はなくとも(猫の中にも言葉はなくとも)何かを感じたり考えたりしてるはずだ。それと同じように、一緒に過ごしていて「こいつは何も感じてないのか」と思ってしまうような相手も、けしてそうではないと私は思う。

今週のBGM - Aphex Twin - Short forgotten produk trk (Mt.Fuji cassette tape 2017)

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 2017年のフジロックで販売されたAphex Twinのテープ音源の一曲がアップロードされた。やっと…テープに収録されているものの大半はモジュラーシンセノイズらしいけど、この曲はテキトーなブレイクビーツです。AFXはこーいう骨組みだけの曲がいいですね。