紙のラジオ

だから、読者よ、わたし自身がわたしの書物の内容なのだ。きみが、こんなにも取るに足らない、こんなにもむなしい主題のために時間を使うのは分別のない話ではないか。では、さようなら。

作業日誌:171021 - 貴重なもの、大事なもの

 命ってそこに一個しかないから貴重と言えちゃうんだけど、この世に生きてるものは全部一個しかないしだいたいのものも一個しかない(そのあたりに落ちてる葉っぱとか)。ほかにもすべての瞬間は一回しかないってこととかもあって、ただひとつ、ただいちど、ということの貴重性は珍しくないものになっている。ぜんぶ貴重だけど珍しくない、ぜんぶ貴重ならぜんぶ貴重じゃない。

 しかしそこでは「このぬいぐるみはIKEAには何千も売ってるものだけど、私が毎日抱いたこのぬいぐるみは一つしかない(と思ってる)」の(と思ってる)部分が肝で、でもそこは思い込みだから隠しちゃって希少性のことを客観的に価値あるみたいに言っちゃいそうなんだけど、私は(と思ってる)という部分が一番大事なのだと思う。

 私は私の大事に思うものを世界中の人々も大事に思うべきだとは思わないし、私が大事に思うものは私の個人的な思い込みのみが根拠でもいいと思う。それによって私は怒ったり喜んだりを私の自由にするともいえる。社会や他人に大事だとかつまらないとか決められたくない。自分のいろんな感情や心情や価値を、他人と共有できると思っている人は孤独というものから縁遠そうで幸せだろうなと思う。実在するのかはわからないけど…

 たとえばだれかの命は、ひとつしかないから世界中の人々が大事にするべきだ、と考えるのがひとびとの感覚や現状に則しているとは私は思わない。逆に私は、だれかの命(やこの世にただひとつしかないもの)は、ひとつしかないから、それを大事だと知った人がだれよりも大事にするべきものなのだ、と思う。

 ほとんどすべてのものがひとつしかないという世界にあって、すべてのものを一つであるが故に大事にするのは不可能だ。道にいるカマキリとか川辺で拾う丸っこい石とかもすべてがたったひとつだけだと言えるんだけど、すべてに言うとすべてが貴重だ、大事だということになる。すべてが貴重だと言っていいんだけど、私に実際に大事にできるものというのは限られている。当然誰かの命よりも他の誰かの命を、ある石よりも他の石を大事にするということになる。

 ものごとの貴重さ、尊さみたいなのって他人にも自分と同じ意識を求めてもしょうがない。私にとって大事なもの、たった一つしかないものはただ私が「それしかないんだ」と思っているが故に大事なものなのだ。他の人にとっても大事である必要はない。そして私にもぜんぶのことを大事にすることは不可能だから、それまで大事だったものを手放したりさようならしたりするときに「でもこのことはちゃんと憶えておこう」とか思うんだけど、それもいづれ忘れる。

作業日誌:171019 - 上達しない

 なぜいつまでたっても満足のいく絵がかけないのだろう?うまくいかないのだろう?といつも思うんだけど、それについてメモ。

 他のことはだいたい出来るのに、絵を描くことが一番うまくいかない→自分は絵を描くことに向いていない(絵を描くのが一番苦手)or 絵を描くことは異常に難しいこと、のどっちかなのか?とふと思ったんだけど、まあどちらかと断言出来るようにはなってないぽい。というよりも、逆にいままで自分ができてきたことというのは「この程度出来ればいい」といった基準のようなものがある。料理はまあ食べられたらオッケー(栄養のバランスよく献立を組み立てられたらサイコー)試験も合格すればいい、仕事もクビにならず効率的にこなせればいい。人付き合いも殺されなかったらいい。

 そーいうほとんどのことは(みんなやってることは)みんな出来ることで、だいたいのみんなが出来るあたりに満足線というか、それでうまく継続してまわるように出来ている。超雑な思いつきだけど。

 でも絵(他の創作活動も)というのは、「出来た」「うまくいった」と判断するのは自分だけなので正解がない。決して満足できない。それが世界で一番難しいことのように感じる理由なのではないかと。技術がいくらあがっても、そーいう問題では解決出来ない抽象的で何かよくわからない領域が絶対に残る感じ。クリシェで言うと「答えの無いもの」を探しつづけるとか、そーいうことになっちゃうんだけど、そこには「上達」という概念はあまり機能しない特別な領域があるぽい。それは個人的な作業になればなる程あるぽい。

 自分の作ったものについて、それを作ることについて、永遠にうまくなってない気がする、全く上達していない気がする、というのが正直な感想なんだけど、まあそういうものかもしれない。北斎もずっと「いつまでたっても絵がうまくならん。100歳になる頃にはちょっとマシになってるだろうか」みたいなこと言ってたし。

 でもまあ絵はうまいとかじゃなくて、とにかくどうやっても満足しないものって感じがするな。満足することに対する上達もない。

 それはとにかく自分がとてつもなく下手だからだ、というのは当然前提にはあるんだけど。永遠に下手のままやり続けることが決定しているみたいな感じかな。超越的なものについては絶対に解明もできないし考えることも出来ないんだけど考え続けないといけない哲学と似てるな。

 「どんな芸術においても いちばん大切なのは 芸術家が自分の限界といかに戦ったか、ということだ。」とソール・スタインバーグも仰っていて、確かポール・グレアムだと思うけど “素晴らしいランナーがフルマラソン中に「自分ではかなり優秀な選手だと思うんだけど、どうしてこんなにしんどいんだろう?」と思うようなものだ。”とも言っていた。まあ限界に挑戦することは誰にとっても永遠にしんどいことで、それが正しい目安なんだろう。

 でもピカソの画集とか見たら「…こいつだけはもしかしたら唯一の例外でマジでサラッと描けてるんじゃないだろうか?苦悩ある?」とか思う。あまりにも上手な技術には苦悩や奮闘のあとがさっぱりきれいにないから…。ジャコメッティは苦悩の跡しかカンバスに載ってない。
でもまあピカソは自分では「絵を壊す」って言葉で表現するんだけど、やっぱりそれは絵の中に現れた失敗にどう対処するかであったり、もしくは以前うまくいったとこをわざとハズすとか、まあ当然挑戦や苦闘はあるでしょう。当たり前だ。でもその跡があまり残らないのは凄いね。だからもしかしたら、いつまでたっても満足出来ないものを続けるのはいいのかもしれない。何がいいのかは今は言えないけど。

 他人にわかってもらう必要のないものが自分の中にちゃんとあるっていうのは強いよ。

 私は変な生き方というか個人的/個性的な生き方をした人の本を読むのが趣味でそーいうのを集めてるんだけど、そーいう人たちの本を読むと(脚色されているとは言え)励まされていいです。「自由」というものの範囲をちょっと広くしてくれる。

 まとまらないけど今日はこれで終わります。

作業日誌:171016 - 意味のないことをする

 わたしは一人でいる間、絵を描いたり曲を作ったり詩を書いたりする。これはほとんど意味がないことだ。意味がないというのはそこに意味を見いだす人がいないということだ。価値と言い換えてもいいのだが、とにかく意味がない。それは他人や社会にとって意味がないということだが、しかし自分にとっての意味はべつにある。その行為はわたしにとってしか意味がないだろうということを自覚している。この活動を続けるためにほとんどだれもサポートをしてくれるわけでない。ぜひその活動を続けるようにと言われるわけでもない。

 これがたとえばゴミ拾いのボランティアであるとか、所属する会社の給料計算のためのエクセルワークシートを作るとか、男女同権のための運動に参加するだとか、他人にとって意味の(価値の)あることならば、これをしたり、その活動を続けるのは容易い。快楽や満足感も(比較的)得やすいだろう。それに比べて(自分にしか)意味のないことを続けるのはどんな意味があるのだろうか。

 ひとつだけ言えるのは、それは重要なことだということだ。他人にとって意味を持たないものがあるということが重要だということだ。逆に、他人が意味や価値を見いだすものに意味や価値があるという保証がないと気づくことでもある。私は誰かほどその誰かの生まれたばかりの赤ん坊を大事には思わないだろう。しかしその赤ん坊はその親にとって大事なものだ。そこには根拠がないが、確信はある。

 ところで自分が生きていることというのは、それだけでは意味がない。みんな生きているのが当たり前だからだ。ここは生者と死者の入り乱れる世界ではない。私が生きているというだけのことにはだれも意味を見出さない。私が生きているということは、私にしか意味がないことだが、私にはその意味は最も大事な、基本的なものだ。

 私の描く絵や、私の作る音楽は、他人にとって、やはり意味がない。しかし、それは私には何より意味のあることだ。私しか意味を見出さないようなこと。それは、ただ、私が生きているというだけのことに、私自身が意味や価値を見いだすのと同じことだ。